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『大真理オーガ教』2001-09-01

※僕は辟易とした満員電車の中で、不思議な美女と出逢った。平々凡々と流れる時間の中の非日常の吸引力。家庭内で起こるカルト宗教。いちおう、怪奇ホラーものです。未熟だけれど、テーマは結構好きかな。

 上の住人が気になる。

 僕は元来かなり神経質な質であるので、例えば就寝中に、家具が軋んでたてる「ミシッ」という音にすら、目が醒めてしまうほどなのだが、ここ数週間それが酷くて困る。
 というのも、この賃貸マンションに越してからそれまでの一年間、僕の上の部屋(僕は405号室なので、505号室になる)はずっと借り手がおらず、空き部屋になっていた。だから上の騒音には全く悩まされなかったわけだが、数週間前、正確には三週間と三日前になるが、505号室に住人が越してきてからというもの、騒音について悩みが耐えない。
 日中は僕は仕事に出ているから、もちろん気にならないのだが、不思議なのは夜中だ。決まって、深夜十二時になると、寝室の天井から、こんな時間に大工仕事かと思われるほど規則正しい音で、ドンドンドンドン響いてくる。丁度寝ようと床につく時間帯なので、近頃では不眠症に近い状態になってしまった。
 いったい、上の奴等は何をしているのだ? こんな夜中に。しかも、決まって同時刻に。

 ああ、今夜も眠れない。




 それからさらに一週間がたった。深夜十二時の騒音は、相変わらず続いている。
 僕は不眠のため、相当ストレスがたまりカリカリした状態であった。ふと脳裏に、幼い頃テレビニュースで見た、マンションのピアノ騒音に悩みついには凶器で階下の住人を惨殺した、殺人事件のことがよぎった。
「まさか、僕はそんなこと……」
 ヘヘヘと笑って、背筋に冷たいものが走ったのをごまかす。
 こんな不安定な精神状態でも、それでも朝になれば仕事に向かわねばならないのは、サラリーマンの辛いところだ。
 僕の場合、若くに結婚したものの、数年後離婚して子どももいない。それから三十八歳になる現在まで、悠々自適な独身生活を送っているわけで、守るべき家族というものがないのである。なのに何故、こう毎日会社に通い、上司に頭を下げ、取引先に頭を下げ、部下の尻拭いをしているのだろうか? 自分一人ならば、適当なアルバイトでもすれば充分やっていけるはずだった。元々無趣味で金の使い方を知らない僕は、かなりの蓄えもあるから、当分は無職でいても構わない。
 僕の本棚には、『月刊・自然と過ごす脱サラ生活』なんぞが並んでおり、アウトドアスタイルの日に灼けた同世代達に、ページをめくる度、僕は羨望するのだった。ようするに、自然でなくともいいのだ。今とは違う生活に憧れていたのだ。
 だが──結局、僕は会社から逃れられないでいる。ちっぽけな自尊心は、僕を「善良なる、いち社会人」から外れることを許さなかったのである。よって、今日も僕は、ぎゅうぎゅう詰めの電気の箱に乗って、会社へ、会社へ、会社へ……

 満員電車は、僕の思考をぶつりと停止させる。前後左右から押しつけるように固定され、自分の意志と関係なく立ち続ける様は、まるで雁字搦めに縛り上げられた人形だ。もしくは、ドナドナだ──ぎゅう詰めの荷馬車で売られて行く、悲しみを叫ぶはずの喉を理性で潰された子牛。こんな時、僕の脳味噌は、考えるということをやめてしまう。何も考えるな、何も思うな、何も感じるな。そうすれば、目的の新橋駅までアッと言う間に到着するんだから──それが、僕が十五年間の電車通勤で身に付けた、最善の選択だった。
 しかしその日は違った。単なる偶然か、それとも奇跡が起こったのか。
 奇妙な美女を見つけた。はっと息を飲むほど美しく、微笑を携えた口元は艶やかで、見ているだけで体が火照るような色気のあるその美女は、いつもの車両のほぼ変わらぬメンバーのその中に、じっと黙って佇んでいた。身じろぐ隙間もないほどの混み合った車内で、美女のまわりの空間だけは、何故か彼女を中心にして、円を描くように清浄に保たれている。その理由は、すぐにわかった。彼女は、細く一点の汚れもないその両手に、二匹の蛙を持っていたのであった。
 まあ何と、「奇妙」の形容詞の似合う風景か。満員電車に、生きた蛙を握った美女が佇んでいるのである! 最初、あまりの不可思議で非日常な光景に、とうとう頭がおかしくなったかと思ったが、どうもそうではないらしい。彼女を取り囲む乗客の驚きの眼差しは、時折ピクピクと腹を膨らませる蛙に釘付けになっており、その体は必死で彼女から(と言うよりは蛙から)離れようと、無理な体勢で踏ん張っていたからだ。ああ、あすこのOLなんて、今にも泣きそうになっている。ここで急ブレーキでも掛かれば、美女と誰かの間で、蛙はぺしゃんこになるだろう。おそらく、グエッと断末魔の悲鳴をあげて。僕は、いつだったか雨の日に、車に轢かれて半死半生になった雨蛙を見たことを思い出した。体の半分をタイヤに引っかけた不運な蛙は、大きなお腹の皮膚が裂け、薄い膜に覆われた内臓を露出させながら、それでもゲーコゲーコと泣いていた。丁度、あんな具合になるだろう。
 僕は思わず、その悲惨な光景を頭に描いた。蛙の臓腑を白いワンピースにべっちょりとくっつけた、美女。今にも卒倒しそうな、不運な一人の乗客。僕は脳裏に浮かんだ圧倒的なインパクトに、薄気味悪い笑いを浮かべたくなるのを堪えながら、新橋につくまでの数十分の間、周りの人々と同じようにその美女と、蛙とを、凝視し続けていた。




 そのセンセーショナルな出来事を、散々同僚の聞きたがりの耳にぶちまけて、いつもより一日が早く過ぎ去ったような心情で、僕は帰路についた。ここ一ヶ月ずっと気になっていた階上の騒音の事が、すっかり頭から消え去っていたのは、あの美女のおかげかもしれない。
「変な人だったよなあ。多分、頭がおかしいのだろうけど。それにしても、蛙とは大胆な手だ。あれなら満員電車も、がら空きの車両と変わらず乗れるぞ」
 そんなことを呟きながら、調布にある自宅マンションのエレベーターを待っていると、またも僕の目をまん丸にさせる、今日二度目の衝撃が訪れた。
 あの蛙の美女! 彼女の姿が、閉じられたエレベーターのガラスに浮かんだのである。つまり、僕の後ろにいつのまにか、例の美女が立っていたのである。
「ひゃっ!」
 僕は思わず小声で悲鳴をあげた。彼女は悲鳴のかわりに、美しい小鳥のさえずりで「こんばんわ」と囁いた。
「あ、こ、こんばんわ」
 僕は間抜けにも、随分とうわずった挨拶を交わし、美女と二人でエレベーターに乗り込んだ。僕が四階のボタンを押すと、その後に彼女はすぐ上の五階を押した。その白い指にはもう、逆さ吊りの蛙は握られてはいなかったが、彼女の顔、服装、漂う色香は、紛れもなく今朝の蛙の美女その人だった。
 ああ、話しかけたい。だが何と聞けばいい? 「もしかして、蛙の人ですか?」では頓狂すぎる。万が一人違いだったら、僕がまるでお馬鹿さんだ。「今朝、同じ電車でしたよね」それじゃナンパか──僕がうずうずしていると、アッと言う間にエレベーターは四階に到着し、しばし密室だった四角い箱は、その重たいドアを開けてしまった。少々残念に、それでいて何となくホッとしつつ、エレベーターを降りようとしたその時、
「今朝もお会いしましたわよね」
彼女はその口から、ビーナスの響きを漏らしたのであった。
「あ、ああ、やはり貴女でしたか──今朝の蛙の!」
 思わず答えてしまってから、その失礼な返答に我ながらびっくりしていると、ビーナスはにっこりと微笑んで、
「ええ、蛙の」
と、小さな顔をくっと傾けた。その何と美しいことか。美術の教科書のビーナス誕生、あれはこの人だったのか──そう錯覚させる程の眩さで、彼女の神秘的な美貌は僕を貫いた。
「私、405の笹塚と申します」
 キラキラの花吹雪の舞う脳味噌が、僕に唐突に自己紹介をさせた。きっと、僕のよく反応する耳は、まるでトマトのように真っ赤になっていたことだろう。それを知ってか知らずか、美女ははたと気がついた風にこう言った。
「あら、それでは私の階下の方ですのね。私、先日505号室に越してきた、王賀[おうが]と申しますの。まあ……私ったら、引っ越しのご挨拶もせずに……申し訳ないわ」
「いや、そんな、気にしないで下さい」
 神秘的で非日常のビーナスは、意外にも常識的なことを言った。それが、僕に今朝の蛙事件のことも、十二時の騒音のことも、すっかり忘れさせるほど、心臓が体ごと持ち上がる勢いでほーっと浮かれさせた。
「あの、もしお夕飯がまだでしたら、私のところでご一緒いたしません? 遅れたご挨拶代わりになるかしら」
「そんな、突然ご迷惑でしょう」
 僕はなるべく平静を装ったつもりで、相当舞い上がっていたのか、顔の前で手のひらをブンブンと振り回した。
「いえいえ、私達も越してきたばかりでご近所にお友達もおりませんし──こちらこそご迷惑でなければ、是非ご馳走させて下さい。それに、こんなところで立ち話もなんでございましょ」
 というわけで、僕はこの王賀と名乗る不思議な美女宅で、不思議な巡り合わせのもと、夕食をご馳走になることとなったのだった。
 それは単なる偶然か、奇跡か、はたまた日常の草むらに突如現れた、非日常という名の罠か──。




「おかえり──と、そちらは?」
 そう言って僕達を向かえたのは、鼻下に立派な髭をたくわえた、五十歳前後の紳士だった。
「今そこで丁度お会いしたので、お夕食にお誘いしたの、405号室の──」
「笹塚です、夜分に失礼します」
「これはこれは、どうぞお上がり下さい。僕は王賀隆夫[おうがたかお]です、こっちは妻の美月[みつき]」
 柔和でこれまた美中年の紳士は、ビーナスの夫であった。僕はこの、二十歳は年の離れて見える美しい夫婦に、少々嫉妬した。が、それから二時間にも及ぶ豪華な夕食の席で、僕の嫉妬は素直な憧れと、尊敬の念に変わっていった。話上手で話題豊富な夫と美しい妻は、食事中一度も僕を飽きさせることはなかったし、美月の作る極上の料理や、芸術品とも言えるカーブを描くグラスに注がれたワインは、鈍感な僕の舌をも驚愕させた。そして何より、これが同じマンションかと思わせる程趣味の良いアンティークの調度品の装飾や、それらに漂う甘い香の香りが、僕の意識をしばし中世ヨーロッパの優美な世界に飛行させた。香と、ワインと、王賀夫妻の巧みな話術とが、僕をどっぷりと心地よい酔いに浸らせていくのだった。
 いつまでもこの時間が続けば良い。あの殺風景な自分の部屋も、煩い会社も、やりかけの仕事も、満員電車も、エトセトラ、エトセトラ……そんなことは思い出したくもない。このまま、彼等の不思議な空間に飲み込まれてしまえば、どれだけ楽だろうか。ああ、帰りたくない──僕は砂遊びに夢中になる子どものように、随分幼稚じみたことを考えていた。
 そんな甘美な酔いを少々醒まさせたのは、ダイニングの奥の部屋にチラと覗いた、洋間に不似合いな少々陰気な祭壇だった。僕の実家にあった神棚とは全く違う、真っ赤な布で覆われた祭壇で、その上にはクリスタルの花瓶に供えられた榊、異様に長い蝋燭、そこにちょこんと置かれている、蛙の置物──
「蛙」
 不意に僕の口をついて出た一つの単語に、王賀隆夫は、はたと話すのを止めた。
「あれ、蛙ですよね。そう言えば美月さんも今朝、蛙を持ってた。あれは何なんです?」
 酔っぱらった僕は、大胆に、シラフではとても出来ないような不躾な詮索を口に出していた。
「ああ、あの祭壇を見たんだね」
「ええ、そうです。そういやすっかり忘れていた。満員電車で、美月さんは蛙を持ってた。いや、あれにはびっくりしましたよ。ええ、みんな目をまん丸くしてびっくりしていました」
 僕はますます興奮気味に、丸テーブルに身を乗り出すようにして喋り続けた。
「まあ、お恥ずかしいところを覚えてらっしゃるのね」
 王賀美月は、美しい笑顔を見せた。
「そんなことないです。僕はびっくりしましたけれど、同時に、言い知れない感動を覚えたんですよ」
「ほう、それはどうして?」
 王賀隆夫は柔和な微笑みで、僕に外国産の煙草を勧めた。それを一本頂くと、初めての味を胸いっぱいに充満させながら、僕はこうつけ加えた。
「何と言いますか……地味なスーツ姿の見慣れた風景の中にですね、ポッと、美月さんのように美しい人が、蛙を持って現れるわけですからね。とんでもない違和感ですよ。その違和感が、僕を興奮させたんです。新鮮な感動をくれたんです」
 僕は一息にまくし立て、そのために溜まった口中の唾液を、一気にごくんと飲み下した。そして、僕が黙るのを待つかのように、王賀隆夫は口にくわえていた煙草をクリスタルの灰皿に落とし、僕に「蛙」の謎を打ち明けた。
「蛙はね」
 隆夫はそこでいったん言葉を切ってから、重大な秘密を打ち明けるかのように、それでいて、内緒話をする少年のような、聞く者をわくわくさせる笑顔で、
「僕達の神様なんですよ」
と言った。
 おお、蛙の神様! 僕はまさに蛙のように、椅子からひっくり返りそうになった。時刻は丁度、十一時三十分を指し示していた。




 場面は、祭壇のある隣室へと移り変わっていた。
 祭壇を横手に、一人掛けのソファに隆夫が、その対面の大きなソファに僕と美月が座る。美月の向こう側には、先程までは素晴らしく明るかった、あのヨーロッパ調のダイニングが、薄ぼんやりと歪んで映っていた。
「先程の妻の料理はいかがでしたか?」
 隆夫が両手を組み、僕を魅了したあの低音で口火を切った。
「ええ、とても美味しかったです。はじめて見る料理ばかりでしたが」
「あれは、蛙の肉なんですよ」
「蛙?!」
 僕が面食らっている隙に、美月が部屋の明かりを消した。
「あっ……」
 部屋は、祭壇の上の蝋燭の明かりだけとなった。どこからか風が入る度、尖端の炎がゆうらりと揺れ、その明かりがクリスタルの花瓶に反射し、蛙の置物を万華鏡のごとく飾りたてる。
「美味かったでしょう。日本では習慣はないが、フランスなどのヨーロッパの一部地方やアジア諸国では、割とポピュラーな料理なんですよ」
「へえ……」
 僕の舌に、先刻食べた料理の感触が蘇る。腹の中で、ゲーコゲーコと鳴き声がする気がした。
「神様を食べちゃうんですね」
 僕は大胆にも口を挟んだ。
「ええ、僕等の神は、僕等にありとあらゆる恩恵をもたらします。キリストや仏陀やアラーの神なんて、まやかしの希望しかもたらさない。僕から言わせれば、下らない幻想ですよ」
「満員の電車に、悠々と乗ることもできますでしょ」
 美月が、フフフとその美しい頬を赤くした。隣りに腰掛けた美月の体温は、薄明かりの中でより敏感に感じられ、僕は無意識に膝の上の両手を握りしめた。するとその時、ファッと入ってきた風によって蝋燭の炎がかき消され、部屋は突如暗闇に包まれた。
「まあ……」
 美月は小さく呟くと、そっと僕の腕を掴み、側に擦り寄ってきた。それは僕の期待した出来事だった。
「気にすることはない。続けましょう」
 そんな僕等の姿が見えるのか、それとも見えていないのか、隆夫は冷静な声で暗闇を肯定した。しばしの静寂の中、僕の右半身は驚くほど熱く脈打っていた。僕の右頬に、腰に、膝に……美月のそれが、つくか、つかずかの距離で迫っている。硬直してしまっている右腕には、彼女の指がほんの小さな力で絡み付いている。この美しく奇妙な妻は、暗闇とはいえ、夫の目の前で何てことをしているのだろう。僕は、酔いと不思議な雰囲気に、理性が流されそうになるのをようやく堪えながら、隆夫に向かって質問をした。
「あの、それは……蛙信仰のようなものなのでしょうか? 例えば、神社の稲荷を崇めたり、ある地方で白蛇を神と崇めるような」
「それとはちょっと違いますね。僕と家内が蛙を神とするのは、笹塚さんのおっしゃったような、古くからの伝統上の地域信仰ではないのです」
 隆夫が述べる間も、美月はちっとも僕から離れなかった。
「では、お二人だけの特別な信仰というわけですね」
「そういうことになりますね。これは僕等の、二人だけの特殊な宗教なのです」
 「二人だけ」という言葉に、僕は再び嫉妬心を覚えた。彼等の創造せし世界は、彼等同士によって守られ、他の何ものにも触れさせず、理解すら許さないのである。だが、僕はこの瞬間、この一風変わった魅力的な男の美しい妻を、今にも肩に抱ける距離に置いている。そしてそれは、美月自身が望んで取った行為なのだ。優越感にも似た妙な感情は、僕を少々得意にさせた。そうして、夫婦の間にしか存在しなかった、この奇怪な信仰の全てを、全くの他人であったこの僕の前に、うち明かしてやりたい気分になったのだ。
「興味ありますね。差し支えなければ、是非詳しくお聞かせいただきたい」
「ええ、構いませんよ。別に秘中の秘というわけではありませんから。それに、僕も妻も、貴方を大変気に入った」
 僕の心臓はドクンと大きく脈打った。この男は、闇でも目がきくのだろうか──僕に寄り掛かる美月に気づいているのだろうか。嫌な汗が額に浮かんだ時、
「と──その前に、もうそろそろ十二時になりますかね」
隆夫がふと話題を変えた。
「そのようですね」
 それに救われた気持ちで、僕は腕時計のライトをつけ確認をした。時刻は十一時五十五分である。美月の指はいつの間にか、僕の腕から離れていた。
「僕等の宗教は、日付の変わる十二時に儀式を行います。蛙の神への感謝を捧げる儀式です。美月、用意を」
「はい」
 呼ばれると、美月はソファを立って、暗闇を熟知しているかのように、スッとどこかへ消えてしまった。十二時──普段なら僕は寝室に入り、そろそろ寝ようかなという時間である。そして、その寝室の階上、つまりこの部屋から騒音が響いてくる時間なのだ。──儀式──確かに隆夫はそう言った。
「儀式……」
 わけもなく復唱する。隆夫は暗闇の向こうで、にぃやりと笑っているように思えた。




 十二時になるまで、僕等は一言も口をきかなかった。その横、丁度祭壇の前で、美月らしき人物がごそごそと衣擦れの音をさせている。こんな近くにいるのに、僕には蠢く生き物の気配と、少々の生臭さしか感ぜられない。いったい、儀式とは何事であろうか? あの騒音をたてる何かが、そこに起こるのは間違いないのだが。
「整いました」
 暗闇の中で、美月の艶やかな声がした。時計のライトを灯すと、丁度十二時になるところであった。すると、ポッと丸い光があらわれた。隆夫が、祭壇の蝋燭に火を入れたのである。その瞬間、目の前に突如広がった光景に、僕はその場に卒倒しかけた。
 蝋燭の中に浮かび上がったのは、赤い丸絨毯の上に干からびた蛙を散らばらせた、一糸まとわぬ美月であったのだ!
 橙色の柔らかな光が、気味の悪い蛙のミイラと、美月の想像通りの美しき裸体──透き通る白さの手足、豊満な乳房、形の良い腰と、その中央に向かってグラデーションしていく赤味を帯びた肌──を、フッと浮かび上がらせるように後部から照らし出し、それは彼女の神秘性を、より一層深めるのには充分だった。そうして彼女は花瓶に生けてあった榊の枝を両手に、とんとんとんとリズムよく、両足を舞わせたのである。騒音の正体は、美月の「儀式の舞い」の足音だったのだ。
「さあ、先程の話を続けましょう」
 呆然とそれを眺める僕の顔を、隆夫は一言で正面に引き戻した。
「さて、笹塚さん。貴方が一番聞きたいのは何ですか?」
「ええ……ええと……」
 僕は先程の威勢の良さをすっかり失って、言葉に詰まった。心地よい酔いは醒め、かわりに僕の頭は緊張感を伴ったパニックを起こし掛けていた──いや、陶酔感と言った方が良いか。
「ええと、お二人が、何故、蛙を信仰するに至ったか……それが、聞きたいです」
 ようやく、途切れとぎれの言葉を口にする。
「いきなり確信をつく質問ですね。それこそが、僕等の宗教の真理たるところです」
 隆夫は、顔の半面を蝋燭の明かりで照らされた不気味な笑顔で、
「いいでしょう、お話しましょう」
と囁いた。
 そうして、隆夫は恐るべき脅威の「真理」を、淡々と話し始めたのであった。その横で、美月はとんとん・とん、とリズミを刻み続けていた。

「僕等は結婚して十五年になります。美月は随分と若く見えますが、あれでもう三十八歳になるのですよ。それでも四十九になる僕には、若すぎる妻ですがね。あれの若さの秘訣は──もうお気づきでしょうが、蛙の生き血です。それこそが美月に永遠の美貌をもたらすのですよ。
 おっと、余計なことでしたね。話を戻しましょう。さて、僕等の家へ来て、貴方は二つの違和感を感じたはずです。一つは、僕は仕事の話も一切しないし、働いている風でもないのに、実に贅沢な暮らしぶりであること。これは、まあ、簡単なことです。僕の親がそこそこの財産を残してくれたのでね。僕等は幸運にも、こうして働かずして生きていられるのです。
 そしてもう一つ。実はこちらが重要なのだが──仲の良い夫婦の家に、子どもの姿が見あたらないこと。僕達の間には、残念なことに子どもがいない。本当に不幸なことです。作らないのではない、出来ないのです。ちょっとした事故でね。あれは、子どもを産めない体になってしまったのですよ(と言って、彼は恍惚の表情で舞い続ける美月に目をやった。彼女の顔は、こちらの話などまるで聞こえていない風だった)。
 だが、その昔、つまりあれがまだ母体としての役割を担っていた頃、一度だけ子どもを宿したことがあったのです」
 と、ここで、隆夫は祭壇に奉られていた血の色の飲み物を、一口飲み込んだ。僕も、忘れていたまばたきをして身構えた。
「結婚して一年のことです。忘れやしませんよ、寒い冬のことだった。その頃僕等は、何処にでもいる幸せな新婚夫婦だった。妻は出産間近の身重だった……美しい妻、手に余る財産、それに間もなく愛しい子をも授かることが出来る。僕は、人生の絶頂期にいることを何度確信したことか! ──だが絶頂を向かえた後は、坂を転げるように落ちていくのみだということを、その時僕は気づかずにいたのです。あれ程の幸福が、薔薇色だった未来が、音もなく崩れさっていくのを、僕はこの目で見ました。
 美月の陣痛が突然始まったのは、夜中でした。苦しむ声で目を覚ました僕は、瞬間的に妻の陣痛に感づき、病院に連絡を入れようとしました。しかし、美月は苦しみのあまり僕の手を掴み、離そうとしません。その時すでに美月は破水し、今にも赤ん坊が産まれる、とそんな状態だったのです──ここでひとつ話を切りましょう。
 先程僕は、結婚して十五年だと言った。今年で満四十九歳ですから、美月と結婚したのが三十四の時です。その年まで僕は独身だったかと言うと……そうではない。実は、美月とは再婚なんですよ。僕には、美月の前に薫という妻がいた。大学の同期だった薫と結婚したのは、僕が二十四の時ですね。薫も、美月に負けず劣らず美しい妻だった。だが、少々高飛車な女でね。正直言って、僕は結婚した早々、口煩い彼女に辟易していたんですよ。それどころか、僕にゃあ元々、薫に対して、愛情何てこれっぱかりもなかった(隆夫は親指と人差し指を、ぴたっとくっつけてみせた)」
「では、何故結婚を……?」
「財産です。薫の家はかなりの資産家だった。その金持ちの娘が、たまたま僕に惚れた──これはチャンスだと思いました。実を言うとね、さっき親の遺産だと言ったのは、薫の両親、つまり義父母の遺産なんですよ」
「遺産。という事は、薫さんも、彼女のご両親も、すでに──」
「ええ。結婚十年目の年に他界しています。僕が殺しました」
 美月の足音が、より一層激しくなった。とんとん・ととん、とんとん・とん……そのリズムはいつの間にか、僕の脈拍と呼応するように、速度をあげていった。
「ちょ、ちょっと待って下さい、殺したって、そんな」
「いや、正確には僕は自ら手を下したわけではない。薫と、その年老いた両親は、雨の日のスリップ事故で返らぬ人となりました。僕は、車のブレーキがあまくなっているのを、彼等に忠告しなかっただけです」
「…………」
 僕は複雑な気持ちで、浮いた背中をソファの背もたれに沈めた。先程までは、甘い心地良ささえ覚えていたはずの香の匂いが、もはや薄気味悪い煙にしか感じず、重厚な美しさを誇っていた調度品は、いつの間にか不気味な笑みを浮かべていた。
「かくして、膨大な財産がこの手中に収まりました。そうして僕は、すでに深い仲だった最愛の人、美月との第二の人生を送ることとなったのです。それからの一年、それはそれは幸せでした。まさに、人生最高の時だった──」
 その辺りから、今まで冷静沈着だった隆夫の声が、段々と隆まっていくのを、僕ははっきりと感じていた。
「そして、先程も途中までお話した、あの冬の夜のことです。もう病院まで持たないだろうと判断した僕は、その場で出産することを決意し、急ぎ清潔なシーツと産湯を用意して、安心させるように彼女の側に座りました。緊急時の対処については、病院で習っていましたからね。すると、美月は僕の手と、大きなお腹をぎゅっと掴みながら、こう呻いたのです。
 『薫さんの、薫さんの恨みよ!』とね。僕は、何のことかと思いました。あまりに出産が苦しいので、そんなうわ事を言うのだと思いました。そうしてまもなくして、子どもは産まれましたが──」
 ふいに、僕の鼻に、干物蛙の腐臭が突き刺さった。
「死産だったのです」
 隆夫は、てんかん患者のように、見た目にわかるほどふるふると体を痙攣させた。対照的に僕は、彼の見開いた瞳を凝視したまま、ソファの上で金縛りにあっていた。
「僕は取り上げた子どもを見て、愕然としました。子どもは、母親の体内でしか、生きていられない哀れな存在だったのです。
 この世には産まれてはいけない存在だった──呪われた子だった!
 そう! まさに薫の恨みの結晶だった……!!」
 そう叫んで、隆夫は舞い狂う美月の下に散乱した蛙の中から、一匹のミイラを取り上げた。
「その子は、生まれつき脳味噌の無い子だったんですよ。ほら、こんな風にまるで蛙のようにね!!」

 隆夫が突き出したそれは、あるべき所に頭蓋がなく、顔面の上部に目玉がギョッと突き出た、蛙のような──嬰児のミイラだった。

「ひっ、ひぃ!!」
 僕は、僕は、僕は……ああ! 選ぶべき言葉が見つからない! とにかく僕は死にもの狂いで、この場から去りたい一心で、言うことを聞かない震える足をばたつかせた。だが気持ちばかりが焦ってしまって、ソファから転げ落ちることしか出来ない。尻餅をついた僕の下で、一匹の蛙の干物がグエッと音をたてて割れた。
「美月はそれが元で狂ってしまった。自らの腹をナイフで突き刺し、二度と子どもの宿せない体になってしまった。
 だから、だからね笹塚君。僕は、この哀れな蛙を神として崇めてやることにしたんだ。薫の恨みのつまったこの蛙を奉り一生を捧げることで、僕は懺悔をしているんだよ!」
「たっ、たった、助けっ」
 隆夫はウウウウと唸り、誰に助けを求めているのか宙をもがく僕の顔に、奇怪な格好をした嬰児のミイラを押しつけた。腐った臭いと、小さな小さな五本の指が、僕の顔を叩きつける(それは思いの外、発泡スチロールのような軽い感触だったが、それが偽物でないことが僕には理解できた。嗄れた皮膚を覆ううぶ毛までリアルな目の前のそれは、確かに、紛れもなく、現実だった)。
 その顔かたちは驚くべきほど蛙そのものだったが、僕は確かに、そのひしゃげた腹に、臍の緒のなれの果てを見つけてしまった。
 僕はその場に、胃の中の物を全てぶちまけた。強烈な酸の臭いのする水溜まりに、蛙の足らしき物体がごろりと転がった。
「さあ、笹塚君も蛙の神に祈りたまえ! 王賀薫と、その両親達と、僕等の哀れな子どもの魂を、安らかな眠りに導きたまえと!!」


7(エピローグ)

 そこから、何処をどうやって逃げ出したのかは、残念ながら覚えていない。ただ、鮮明に記憶するのは、我が子のミイラを高らかに掲げ、目を見開き絶叫する王賀隆夫の姿と、一心不乱に踊り続ける美月の、なおも美しい下腹部のその中央──先程は単なる赤味と思ったその場所に、大きな傷跡が笑っていたことだった。
 何故かそれを見た時、僕は、昔見た、腹の裂けた蛙の姿を思い浮かべていた。

 王賀夫妻が505号室から忽然と姿を消したのは、その翌日のことだ。その夜から、騒音はぱたりと止んだのである。後に、警察に事の一部始終を話し、警官同伴のもと彼等の部屋を捜索したのだが、見事な調度品も高価な家具も、全てそのままに、二人の人間だけが消え去っていた。そして、あの不気味な赤い祭壇も、二人と一緒にその場から姿を消していた。
 その事件以後も、結局、僕は相も変わらず、満員電車に揺られ続けている。もう「今以外の何か」に憧れることはやめた。
 そして今もどこかの町では、午前十二時が訪れる度、王賀隆夫と、その美しい妻王賀美月の、世にも妖しい儀式が行われ続けているのだろう。

※おまけ
話中に出てくる「ピアノ騒音殺人事件」は、このサイトさんで詳しく扱っています。

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