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『おれと彼女の境い目』2005-06-15

※自殺未遂を繰り返すボーダっ娘の「彼女」をうとましく思いながらも見捨てられない「おれ」のひどい話。終始ウジウジグダグダおれがおれがおれがと自分語りをするという変わらない芸風です。前作から一年以上間があいたにもかかわらず成長してなくてすんません。私ももっとエンタメちゅうものを考えなおさにゃいかんね。

 彼女が死んだ一週間後、形見分けだと言って彼女の母に一冊のノートを手渡された。表紙を縁取るレースは新品だった頃とは見違えるようにくたびれて、ヤニと劣化で黄ばんだ布地のところどころに小さな赤いシミが散らばっていた。それが彼女の血痕だと意識してしまう前に手早く表紙を開き、さっさとページをめくった。横書きのページは、どこも丸っこい字で綴られた散文や詩で覆われていた。ちゃんと読んでいるともいないともつかないであろう適度なスピードをたもちながら、時折思い出したように目に飛び込む古びたシミに思わず顔をしかめそうになるのを我慢して先へ進むと、ノートは三分の二程いったところでぷつりと白紙になり、そこでおれはやっと顔をあげることができた。
「最期まで迷惑をかけ通しで、本当に山岡さんには何てお詫びを言ったらいいのか……」母親は瞼を伏せた。「折角山岡さんに優しくしていただいたのに、あんな形で発作的に死んでしまって……あの子もずっとあんな状態だったから、私達も内心覚悟はしていたんです、けどね、やっぱり実際こうなってみると、辛くて」
 おれは唇の端を微笑で固めたまま、長くなりそうな泣き言を遮るように音をたててノートを閉じ、両手で差し返した。
「これはおばさんの手元に置いてやって下さい。大事な形見ですし、その方が彼女にとってもいいと思うんです」
「そう? そうね、そうかもしれないわね」
 おれの返事が少々期待はずれだったのか、母親は一瞬顔を曇らせたが、ふと今思い出したのだとでもいうように一つ気になることがあると切り出した。
「あの子、このノートの一番終わりのページに妙なことを書いているんです」
 受け取られないままのノートを掲げ行き場のなくなった手で裏表紙をめくると、そこには罫線を無視し、難儀してようやく読み取れる程の乱暴さで書き殴られた一文があった。
「多分死ぬ直前の最期の書き付けだと思うんだけど、どうしてこんなことを書いたのか全くわからなくて。いえね、正直言うとここに書いてあることのほとんどがよくわからないんですよ。詩のつもりなんでしょうけどねえ……母親なのに理解してやれないなんて情けないことだけれど……、結局私達には最後まであの子のことがわからなかったのね」長台詞の後で呼吸を整え、ため息をひとつ。母親はおれを見る。「でも、あの子が一番信頼していたあなたになら、もしかしたらと思って」
 おれはもう一度ノートを閉じ、答えた。
「さあ、僕にもわかりません」


** 彼女を殺せない理由 **

 苛立ちと切実さで精製された涙の塊が電話線を介しておれの部屋を占領し、おれはあっという間に内蔵までびしょ濡れになる。一定の間隔で鳴り響く電子音が子供の悲鳴のようだ。螺旋を描いた電話機のコードが、直立不動のおれの腕に蔓のように巻き付いてくる──気さえする。あと何コール我慢すれば、この悲鳴は止むのだろう。

 ……こっちの事情などお構いなしに鳴り続ける無機質な電話のベルを、出来ることならば完全に無視しこの場から逃れ記憶から抹消したいと願っていた。それが無理な話だということは、おれ自身が一番よくわかっている。記憶は消えない。きっと一生、何十年も先、おれが死ぬか痴呆の渦に飲み込まれおれがおれでなくなるまで、記憶はおれを苦しめ続ける。仮にこのまま受話器を取らず逃亡したとしてもことあるごとに──通り掛かりに突如鳴りだす公衆電話、確実におれ宛ではない誰かの携帯電話の着信音にすら──今夜の電話の主の顔とそれに伴う全ての出来事を克明に思い出し、果ては無音状態ですら幻聴が襲い、ありありと蘇る怒り、恐れ、恥、後悔、思い出した回数とともに濃度を増していく罪悪感、陳腐な単語にすれば何てこともないような有刺鉄線で出来た感情で、短針ほどのスローペースで締め上げる万力のように、ゆっくりとこの身は押し潰される。おれがおれを許し、記憶と感情に器用に折り合いを付けられる日などきっと一生来ない……まだ五コールか。くそっ。

 おれの手はたっぷり十秒ためらってから、今夜も諦めを持って六コール目で受話器を上げる。思った通りアケミの母親だった。
「もしもし山岡で──」
「ア、明美がまた手首を切って、あの、あの子が蓮治蓮治って山岡さんの名前を呼んでいて……」
 また泣いていたのだろう、鼻にかかった声で、けれどまくし立てるようなその勢いにはおれの意志の介入する余地はない。そもそも受話器を上げてしまった時点で、おれにはそんな権利を行使する勇気はなかった。
 (もううんざりなんだ)
 前歯の裏側で辛うじてとどまっている本音が溜息となって吐き出されるのを最後の理性で引き剥がし、飲み込んで、やっとの事で返事をした。
「わかりました。今寝間着なので、着替えてすぐに伺います」
「お願いしますなるべく早くお願いします。いつも明美が迷惑をかけて本当に申し訳なく思ってますけど、本当にあの子にはあなただけで……こんな夜中に本当にすみません」
 ホントウは繰り返すほど白々しく聞こえるものだが、彼女の言葉は嘘偽りない本心そのものだった。その真実の言葉の根底にあるのは、乞食が物乞いするように無節操に救いを欲する切実さ、あるいは腹の減った赤ん坊の鳴き声だ。罪悪感を餌に強奪していく悪魔の所業だ。それを受話器を下ろすことによって一旦遮断する、それだけがおれに出来る唯一の抵抗だった。それ以上もそれ以下も何一つ出来やしない。
 おれは着替えたばかりのパジャマをのろまな亀よりは速いスピードで脱ぎ替え、会話中押さえていた溜息を一気に吐き出しきると、タクシーを呼ぶため再び受話器を取った。



 寝静まった住宅街に点々と続く街灯の光の中を駆け抜ける車内は、驚くほど静かだった。まるでこの世に俺と運転手の二人しか──いや馬鹿げてる。それほど静かだった。タクシーの運転手は商売柄、客の気分を読み取ることに長けているのか、それともこんな時間の近場の客に不機嫌になっているのだろうか、行き先を訪ねてからずっと無言のままだった。あるいはおれの根底にある濁った性根まで見透かされているのか──それこそ馬鹿げてる、被害意識もいいとこだ。とにかく、沈黙のおかげで考えたくもない余計なことばかり考えられる。  おれはサイドミラーに流れる反転の世界をぼんやりと確認しながら、なぜ彼女の母親はああも本気になって嗚咽出来るのかを考えた(アケミの自傷行為なんて毎度のことなのに)。やはり母子だからなのだろうか。それならば、今自分がこんなにも冷めきった心持ちであるのは、当然他人であるがゆえなのか。しかし、執着も情熱もないはずのアケミの命のほんの一つを、どうしておれは見すごせないのだろう。いつもいつもおれを苦しめる問い──今夜の電話を無視したら、あるいは母親の申し出を断ったとしたら、アケミは死んだだろうか? いや今日だって、おれが行ったところで手後れなのかもしれない。今日こそとうとう、本当に死んでしまうかもしれないし、死なないかもしれない……。その答えは、自分でもわかっているし誰でもわかるだろう。結局のところ、俺はアケミの命そのものよりも、アケミの死におれの存在がかかっているという事実が怖いのだ。アケミの命に執着がないと言ったそばから矛盾した話だ。いったい命の重さとは何なのだろう。命は大切、命は大事、命は一つ。そんなこと誰が言い出したのだろう。おれはけしてダーウィニズム論者ではない──と思う──が、後に何の語り継ぐべきものもない平凡な人生のために、有限である資源を食い付くさせるのは無駄ではないかと思うことがある。……未来への可能性? ……詭弁だ。おれ達はもう器から溢れた過剰な命の一部だ。これは多分真実だ、おれもアケミも……。しかしその代表格である自分に、けして矛盾しない生への執着があるのも事実なのだ──おれは死にたくない──なるほど命は大事だ。なんて単純な話なのだろう。

 死にかけのアケミ、という事実に直面するのが嫌でうだうだと考え事をしているうち、やがて車は直線とモノトーンで構成されたモダンな住居の立ち並ぶ住宅街の一角に止まった。おれは心を空っぽにし、なるべく事務的に処理しようと努めた。代金を払い座席から降りるとすぐ、玄関先で待っていたのかドアの閉まる音と同時に父親が現れ、傷が思いのほか深かったのでアケミは母親と病院へ行ったのだと告げられた。その言葉に次の取るべき行動を察したおれは、大通りへ戻ろうと方向を変えていたタクシーを引き止めた。慌てて転ばないように、かといって冷静すぎず、不自然にならないよう足を運んで。
「山岡君には本当に申し訳なく思っている」
 再び乗り込む間際、目の下に重くどす黒い陰をこしらえた中年男はそう言って深々と頭を下げた。一年前より大分薄くなった後頭部が見える。そのまま地面に吸い込まれてしまいそうなほど弱々しいその姿は、容易に『いつか』のおれと重なって、折角真空だった頭の中へ不安や苛立ちといった不必要な感情がポンプのように吸い上げられてしまった。おかしなことだが、おれはこの時この人を心底哀れに思った。救ってやりたいとさえ思った。そしてその通り、おれはこいつにかわって病院へ行こうとしている──哀れに思えば思うほど怒りも倍増する。いったいおれはどうすれば、こんな風に思わずに生きていけるのだろう?
 アケミさえ最初からいなければいいのに。
 その想念が外側あるいは内側に向かって爆発する前におれは早足で座席に乗り込んだ。ドアが完全に閉まるのを待って、握っていた拳を開いた。真っ白になった手の平に見事に四つずつ爪の跡が刻まれている。それを擦りあわせながら行き先を病院へ変更する旨を伝えると、運転手はバックミラー越しに好奇心混じりの──今度はおれの被害妄想ではない、正真正銘の──視線を投げ掛けて言った。
「急ぎますか?」
「いや」おれは溜息まじりに告げた。「必要ないよ。是非とも安全運転で行ってくれ。料金稼ぎに遠周りしてもいいくらいだよ」
 運転手のもっと何か言いたげな様子に気付かないふりをして目を瞑り、薬臭いシートに背を預け──おれはこの匂いが苦手だ──あいつが既に死んでいた場合のロールプレイを繰り返した。病院へ向かった数だけ繰り返した模擬試験、想像のようにうまく満点を取れるだろうか?
 おれはまだ微かに震える手をもう一度握りしめた。



「二度手間になってしまってすいません。病院へ来る前にご自宅には電話を入れたんですけど、もう遅かったみたいで」
 病室へ着くなり母親の口から出て来た謝罪を、瞬間的におれがいまどき携帯電話を持たないことへの非難だろうかと勘ぐってしまった。もちろんそれはおれ自身の天の邪鬼さがなした愚問だ。これこそ被害妄想以外の何ものでもない、この母親はそんな悪の機転の利くほど器用な人間ではない。しかし悪意のないことが余計におれを苛立たせるのだ。
「それで、アケミの具合は?」
 架空の敵に腹を立てる自分が情けなく、さらに無駄に苛ついてついつい早口になる。それが母親には『女性の身を心から案じる男性』として映るらしいから、世の中も上手く(おれにとっちゃ上手いことなんか何もないが!)出来たものだ。
「ついさっきまで興奮していたんですけれど、今は先生に鎮静剤を打ってもらって寝ています。出血も何とか止まったみたいで、命には別状無いそうです。ああ、本当に良かった!」
 最後の安堵の溜息に、そのツラを平手でひっぱたきたい衝動に駆られた。……いっそ本当に殴ってみようか。母親からの信頼は一気に崩れ、もう二度とアケミに近寄らずにすむかもしれない……その澱みきったドブ沼のような計画も、看護婦の「お母さん、明美さんが」という一言でおじゃんになった。ホッと胸を撫で下ろしている自分がいて、舌打ちをしている自分もいた。
 母親の後に続いて個室に入ると、すでに医者の姿は見えず一人の看護婦がつきそうだけだった。清潔さを強調する消毒薬の匂いと束の間の静寂のあと、アケミの手がもがくように空中を掻き、母親は慌ててベッドに駆け寄った。
「目が覚めたみたいだわ」
「……はやくきて」
「大丈夫よ明美、山岡さん来て下さったわよ」
「……はやくきてよ、レンジ」
 アケミの唇は二、三のうわ言を紡いで、ふっと力が抜けたかと思うとまた寝息を立て始めた。ドアの側にぼんやりと突っ立っていたおれは、母親と看護婦の無言の催促に負けてためらいがちに歩み出た。端に避けた母親の代わりにベッド脇の椅子に座った。そうしてソレを見た。静かだった。真っ白いベッドの上に青白い棒切れがあった。摂食障害で無残に痩せ細ったアケミという名の棒切れは、眉をしかめながら横たわっていた……早く帰って寝たい。
 横に居る母親が頷くのを見て、おれはアケミの手を取った。そして、いつものセリフをサン・ニー・イチ……。
「大丈夫だよアケミ、おれはここにいるよ」
 早く自分のベッドで寝たい。

 それからのおれはほぼ無意識で、次に頭がはっきりとしたのはトイレに駆け込み個室の鍵を締め、便座に座って頭を抱えた時だった。
 ああ、我ながら虫酸が走る! 毎度毎度、こんなことに何の意味があるのだろう。眠っているだけのアケミの手を握りにわざわざ来たのかと思うと自分が可哀想になってくる。まだ手のひらにあのいつ握ってもゾッとするかさかさの肌の感触が残っている。乾燥して骨張って枯れ枝のようなあの手が無遠慮におれを求める。振り払うおれの手をアケミの手が握り返す。やはり夜中の電話など出なければ良かった、だが出なかった時──彼女が死のうが死ぬまいが──おれはどうなる? くそっ、畜生、くそっ。
 どうしてこれ程アケミのことで悩まなければならないのだろう。おれは血の因縁で結ばれた父親でもなければ、契約で結ばれた夫でもないし、ましてや精神科医でもない。なのになぜ、おれはこうしていつまでもアケミの手を握っているのだろうか、ただ恋人だというだけで!


* とろけるくも *

  とけ落ちる雲。
  とけ落ちる雲の波間にのぞく人々の家。
  地上に残るその跡は次第に彼等を包囲していく。
  誰も気付かず 物音もせず 見渡す限りは灰に染まる。
  たった一つ
  輝く庭と家とその主とだけを残し 見渡す限りは灰に染まる。
  主は雲のきまぐれに ほんの一歩の自由もない。
  庭には一つの銀色の 馬に跨がる騎士の像。
  窓から見える小さな騎士の像だけが、主の一つの希望だった。
  窓辺に佇む微笑みだけが、騎士の一つの希望だった。


** 腐臭の街 **

 ナースステーションにあったカレンダーの曜日をもう一度チェックして、今日が確実に休日であるのを確認し、病院を出た頃にはすでに朝の九時をまわっていた。病院で一晩明かした──おまけになんやかやと一睡もさせてもらえなかった──おれは、まだ目覚めないアケミとアケミの母親を残し家へ戻ることにしたのだ。
 病院のゲートをくぐった途端に弱々しくなる外来患者の間をすり抜け、太陽を反射してギラギラと輝く二重扉の正面玄関をくぐって外の空気を吸ってはじめて、昨夜から何も口にしていなく腹が減っていることに気付いた。胸のすぐ下の部分が捻り上げられているように痛む。  おれはタクシー乗り場を通り過ぎて、病院の向かいにあるファミリーレストランへ立ち寄った。

 クリーム色の壁紙に、渋めのオレンジ色のソファ、白い天板の貼られたそっけないテーブルセット達がおれを迎え入れた。男も女も子供も年寄りも、前科者や人殺しや自殺未遂者さえも何者をも拒む意志のない、大量生産品に囲まれた万人に開かれたデザイン。天国というものがあるなら、きっとそれはこんなものだろう。その隅の席に天使には程遠い中年女の案内で腰掛けたおれは、差し出されたメニューの一番上にあったランチの、さらに一番最初にあったAセットをパンとアイスコーヒーで注文した。天使は愛想を振りまきもせずさっさと行ってしまった。
 おれは取り上げられたメニューの代わりに、壁にかけてあったランチセットのポスターで頼んだばかりの内容を確認した。誰もが不味くなく食べられる冷凍ハンバーグと冷凍ベジタブルの盛り合わせ、それになぜかハーフサイズのカルボナーラがついてくる。いつ見ても奇妙な取り合わせだ、天国の食事というものは。そんなくだらないことを考えながら、料理より先に運ばれた、これだけはどうしても美味しいと思えないファミレス独特のアメリカンコーヒー──の水割り──を啜っていると、鼻の奥から喉をえぐるような……すりおろしたまま蒸し暑い納屋に放置した安物のパルメザンチーズのような匂いが漂って来た。臭気の元は禁煙席の奥に陣取った若い母子で、すぐに赤ん坊の吐いたミルクの匂いだと気がつかされた。母親はぐずる赤ん坊の口の周りをタオルでさっと拭うと、誰とも目を合わさないようにして足早にトイレへ消えた。辺りには気まずい空気──文字通り本当にマズい空気!──だけが残った。おれの向かいでスポーツ新聞を広げていた背広の男が新聞の影に隠れて舌打ちを一つ。
 噎せ返るような母性の匂いと男の舌打ちが、やっと蘇った食欲をあっという間に削り取っていった。おれはきっちり一秒ためらってから、パスタが運ばれてくる前に(もしかしたらまだ冷凍フード用のレンジのスイッチさえ押していなかったかもしれない)ウェイトレスに詫びを入れ、千二百六十円の後悔を払って店を出た。病院に戻りタクシーを拾った次の瞬間には、マンションの前で運転手に肩を揺すられていた。自宅の冷蔵庫の中身を考えるには、おれはいささか寝不足すぎたようだ。

 *

 年を追うごとに老朽化の痣に侵食されていくおれのマンション。晴れた日に干した洗濯物がいつまでも湿っぽい北向きのおれの部屋。ヘドロまみれの貯水庫と錆びた給水管を通ったぬるい水が、洗ったばかりの顔に淀んだすじを描いている。水分を排出するばかりの皮膚は乾燥しささくれ立っている。昨日までは無かったはずの吹き出物が鼻の横で赤く膿んでいる。口の中で粘膜が死んでただれている。
 日中には思わずスーツの上着を脱ぎたくなるほど温かくなる、春の終わりの一日のはじまり。ほどよい風が汗ばんだ肌を心地よく冷ましていく、そんな最高な日の朝。朝日の見えないおれの部屋。おれの洗面所。錆びた鏡の中のおれの顔。
「疲れた……」
 耳の下側から聞こえる音がまるで他人の声のようだ。顔を洗っても、まだ目覚めた気がしなかった。
 身体のあちこちから休息を要求するサインが出ていたが、おれはあと一時間で出社しなければならない。こんな状態で仕事をしたのではミスも多そうだが休むよりはマシ、休むよりはマシ、そう自分に他人の声で言い聞かせる。下着とワイシャツを羽織りスラックスにベルトを通してジッパーを上げる、そうして衣擦れの音が止んだとき、このままでは倒れてしまいそうで普段見もしないテレビをつけた。囲碁の盤面が小さな画面いっぱいに映し出される。何かの法則に沿って敷き詰められた白と黒の石と(おれは囲碁のルールを知らない)、無音というBGMをバックに抑揚のない女の声で淡々と読み上げられる意味不明のナレーション。おれはわかりもしないのに、ネクタイを首に掛けたまま小一時間囲碁番組を眺め続けた。

 一日の活動が始まる音──誰かが道路に箒を掛ける音、商店街のシャターの開く音、低空飛行の雀の鳴き声、葉を霞めた朝の陽射しでアスファルトが温もる音──を、こんなにも不愉快な気分で聴いたことがない。朝からの呼び掛けが、これ程不快な刺激に思えたことはない。始まりの音なんて今のおれには不似合いすぎた。おれには腐った天国が相応しいのだ。おれは口の中でパチンと小さく舌を打った。その音は今日一日おれの身体から離れることはなかった。


* ひとりぼっちのうちゅうじんの記憶 *

「音も言葉もなにもない世界に住みたいな。わずらわしさもなにもない、理解する必要も理解してもらえないもどかしさもなにも──」
「理解しようとする努力もなにも?」
 彼女は苦々しく首を振る。
「そこで……ずっと、寝て過ごしたい。その世界の住民のすることといえば、瞼を閉じることだけなのよ。閉じたらもう一生、開ける必要もないの」
「ひどく退屈な世界だね」
「退屈のほうがずっとマシ」アケミは煙草に火を入れて深く吸い込んでから、こんなものも必要ないの、と不器用に微笑んだ。
「地球にひとりぼっちで残された宇宙人は、どうするかしら」
「さあね、お迎えのUFOを待つんじゃないの?」
「きっと誰にも知られない場所でひっそり死ぬのよ。死ななければ人間達に捕まって実験体になってしまうもの」
「そうかな、もっと友好的に出来ないかな」
「無理よ。同種同士ですら理解しあえないのに、どうしてたった一人の何の力もない宇宙人と友好条約を結べるかしら。異種の知的生命体同士は共存しあえないに決まってるわ」
「決まってるのか?」
「決まっているのよ」
「見た事もないのに?」
「知ってるもの、私。蓮治も知ってるでしょ」
「……そうだね」
「でも、二人だったら……二人なら手をつないで一緒に眠ることも出来る」
 アケミの頭の中の幸せで退屈な世界は、けして現実に現れる日のないことを二人ともよく知っていた。今日もチンケで意味のない会話をしながら一日が終わるのを待つだけ。そうしていれば、永遠にこの世界の住人で居続けられることを二人はわかっていた。アケミはおれの手を取った。おれは握り返さず、かといって振り払いもしなかった。目を閉じた後は開かなければならないだけ。この時そのことを知っていたのはおれだったのだろうか、それとも実はアケミだったのだろうか。


** 忘れるための会話を忘れるためのわずかな努力 **

 その日会社から戻ると、数少ない──ほんとうに少ない!──友人の敦から留守電が入っていた。大学時代の友人達と集まっているので、久しぶりに一緒に飲まないかということだった。相田、田中、後藤、名前だけはよく覚えている。顔はぼんやりとしか思い出せない。おれは一時間前に入っていた留守電を聞き終えると、すぐに着替えて、すでにメンバーの集まっている駅前の居酒屋へと急いだ。

 敦と、ぼんやりとした顔の面々はすっかり出来上がっている様子だった。その輪に入り、勧められるままビールジョッキを空ける。大学時代にやったバカなこと、会社の業績、減る一方のボーナスのこと、どうでもいい世太話を延々と聞き続けたあと、おれは摂食障害で自傷癖のある女の子の話をした。酔った勢いで、というのは口実だ。むしろ残っている理性が口を開かせた。
 途端、相田の大きな目に何かが宿ったのを感じた。この視線をおれはごく最近感じた覚えがある。ああそうか、あの夜のタクシーの運転手と同じ目をしているのだ。
「なるほどねー」相田が不揃いな歯でナンコツ揚げを噛み砕く。「俺が思うにその彼女は別に死にたくてリストカットしているわけじゃないんだよ、傷つくことでしか出来ない存在証明ってやつ」
 続けて、田中と後藤も身を乗り出した。
「たんなる自己憐愍じゃないの、カワイソウなアタシ〜ってさ」
「何かで読んだんだけど、そういう病気の人ってさ、一日の行動を全て管理された矯正施設に入るとピタッと自傷が止むらしいよ」
 相田がパンと手を鳴らす。
「あー戸塚ヨットスクールとかそういうのね、あったあった! そういや戸塚ヨットってどうなったんだっけ?」
 どうなったんだっけ? と振られても、おれには何も言えることはなかった。こんな酒の肴に丁度好い話題は、少なくともおれ自身が笑い話に出来るまで──そんな日は来るのか?──するべきではなかった。やはり残り半分の酔いが判断を鈍らせてしまったのかもしれない。  彼等の、それぞれにバリエーションに富んだ同じ意見を聞くうちに、頭の上の方から血の気が引いて行くのがわかった。戸塚ヨットの校長の激が飛ぶ中タナトスに従って細すぎて血液すら通らない腕を切り刻むカワイソウなアケミ、切っても切っても血は流れずにそのうち腕がコロンと転がって、それを校長が拾っておれに手渡す……死ぬ程くだらないイメージ。

「蓮治? 大丈夫かお前、真っ青だぞ」
 敦がおれの異変に気付いた頃には、既に限界だった。トイレとだけ言って席を立つと、敦は慌てて付き添ってきた。
「おれ帰るから」一歩後をついてくる敦に言った。「お前からあいつらに言っといて」
「そんな、帰ることないだろ。蓮治の気持ちもわかるけど、軽々しく言い出したお前も悪いぞ」
 おれは歩くのをやめ振り返った。
「おれ、そんなに軽いノリで話してたか?」
「え?」淳が細い目を丸くする。「ああ、うん、何だかゲラゲラ笑いながら喋ってたけど。もしかして酔ってるのか?」
 おれには……おれは、本当に『おれ』自身を理解しているのだろうか。今まではそのつもりだった。だがこの頃はわからなくなってきた。だんだんと気が遠くなっていくのを堪え、震えそうになる足をトイレへ向ける。敦は心配顔で洗面所の中までついてきた。一人になりたかった。
「まあとにかく、今お前が怒って出てったら雰囲気悪くなっちゃうからさ……な、頼むよ」
 おれはさっと蛇口を捻ると両手ですくってうがいし、温い水と一緒に、ヤニとアルコールの混じった本音を吐き出した。
 ──わかった、お前には隠していた本当の事を言う、俺はアケミを忘れたいんだ。アケミの腕の醜い傷跡もあのカサカサの感触も、顔も名前も存在も全て忘れたいんだよ! なかったことにしてしまいたいんだ! アケミなんて、おれの知らないところに消えちまって勝手に死ねばいい!

「──おい、聞いてる?」
「ああ聞こえてる……わかってるよ、話を持ち出したおれが悪かった、そんだけ」
「そっか。そうだな……あ、そういえばさ、こないだ偶然俺の同僚と会ったろ」
 敦はこの場の雰囲気を変えようと思ったのか、不自然に見えるほど明るい口調で話を切り替えた。おれはその努力に報いねばならないと思った。
「いつのこと?」
「先々週かな。二人で飲んだ夜さ。入ったバーに同僚の女の子が居て、紹介したろ。笹原さん、結構可愛い子だったろ」
 先々週、バー、笹原さんか……会ったような気もしたが、酔いも手伝ってか霞がかっておぼろげにしか思い出せない。その前の週はアケミがまた手首を切った。
「ああ、そうだったかも」
「お前のこと気に入ってたぞ」
 どうにか思い出そうとしても無理だった。実を言えば、敦と飲んだのが先週だったのか先々週だったのか一ヶ月前だったのかもあやしい。
「なんか言ってた?」おれは持っていたハンカチで口元をぬぐった。
「すごく感じのいい人だって」
「……おれ、その笹原さんって子と何か会話してたっけ?」
「何だよ忘れてんのかよ。まあ会話ってほど話したわけでもないけど、ちゃんと挨拶してたぜ」
「そうか」
 もう一度、唇が擦り切れるほど強くこすった。

 すごくいい人、まったくだ。この世はいい奴だらけだ。おれだって場の雰囲気なんておかまいなしに怒鳴って帰れるような奴になりたい。一度しか顔を合わせていない笹原さんに、すごく嫌な奴と反吐を吐かせるような、そう思われて意にも返さないような、ごきげんな奴になりたかったよ。
「今度二人で会いたいってさ。どうする、やめとくか?」
「いいよ、会うよ」
 敦は「そっか」と言うと、嬉しそうにおれの肩を軽く叩いて席に戻った。

 おれは想像の中で、顔も思い出せない笹原さんを犯した。振り上げた拳を結構可愛い笹原さんの小さな唇の間にねじ込んで、髪の毛を鷲掴んで、濡れてもいない粘膜に突っ込んで……吐き気がする。

 *

 敦と外で会う時に、その恋人である奈緒子もくっついてきて三人で話をすることがままあった。相田達と飲んだ後だったか先だったか、正確には思い出せないが、この日もそんな一場面だった。
「蓮治君は冷たいよね」
 奈緒子の大きすぎる黒目が、シャンデリアの丸い灯りを反射しながら、非難するように細めた眼の中でくりくり動いている。ドナルドダックとあだ名を付けられた唇を突き出す子供っぽい癖は、いまだ健在だ。
 おれたち三人は駅ビルの一階にあるカフェの丸テーブルを囲んで座っていた。大学のゼミが一緒だっただけの奈緒子は、敦の恋人でなければ卒業後交流などなかっただろう。相田達もそうだ。社交的な敦が仲介しなければ、おれは彼等の中で忘れられた想い出になるはずだったし、おれにしてもそうだった。
 奈緒子はアイスコーヒーのストローを弄りながら続けた。
「冷たいし、酷い人だね。蓮治君の話を聞いたら、きっとみんなそう思うよ」
「おいナオ、そういう言い方はよせよ。蓮治はそんな奴じゃない」
 敦のフォローが聞こえなかったふりをして、おれは奈緒子を睨んだ。
「そう言うけど、じゃあ、おまえだったらどうする?」
「あのさぁ、私蓮治君の彼女じゃないんだからオマエとか言わないでくれるー?」
「彼女だったらいいのかよ」
「うっさいなあ、いちいちあげ足取らないでよ」
 敦がまあまあと言っておれたち両方の肩を小突く。またドナルドダックの癖。
「まあ、そうだなぁ……」奈緒子はふん、と軽い吐息をついた。「私だったら一緒に泣いちゃうかな」
 おれはお定まりの感情論ばかり並べ立てる奈緒子に苛ついて、むきになって言い返した。
「泣いてどうすんだよ。泣いてあいつの自傷癖が治るのか? もっと具体的な打開策を教えてくれよ。病院へ連れていく、なんてのは駄目だぞ、もうとっくにやってる」
 奈緒子も俄然対抗心を燃やし、ますます唇を突き出して早口におれを攻撃する。ぐわっぐわっぐわっ。
「充分具体的じゃん。人が自分を傷つけたり拒食症になったりするのは、生きてて辛いよ、誰か助けてよってSOSなんだって。一緒に泣いて彼女の辛いとか苦しいとか、そういう感情を共有してあげんの。ほらよく悲しみは二人で背負えば半分っつうっしょ。論理っつーの? そういうのは必要ないんだよ、ココロだよココロ。うん」
「はん、だったら奈緒子が一緒に泣いてやれよ、心なんだろ」
「なんで私がぁ? 明美ちゃんが助けを求めてるのは蓮治君じゃん、なすりつけないでよ」
 満足気に頷きながら底に残ったコーヒーをすする彼女を、椅子の前足ごと蹴り飛ばしたくなる衝動を押さえて、おれは反論しようとした。だがそれより先に開かれた奈緒子の口には、おれも諦めざるを得なかった。
「だいたいさあ」もうよせよという敦の言葉を振り切って、奈緒子はおれを永遠に黙らせる一言を言った。「そんなにイヤならさっさと別れちゃえばいいのに」
 そうだよ。イヤならさっさと別れちゃえばいいんだ。正解だ!
「おいナオ、おまえいい加減にしろよ。他人がアレコレ言う問題じゃないだろ」
 恋人に諌められ、だってーとつぶやいてまた唇を尖らせた奈緒子を、おれは殺してしまいたくなった。だがおれは一生奈緒子を殺さないだろうし、きっと一生誰のことも殺せないだろう。頭の中では数えきれない死体の山が築かれているというのに。
 いったいぜんたい実際に人を殺すことと、こいつを殺したいと思うことの間にどれだけの差があるのだろう。おれは確かに思ったんだ、こいつを殺してしまいたいと。そして思ったが最後、おれはそいつ一人分の重荷を背負うことになる。いったいおれはどれだけ罪を背負わねばならないのだろう。いや違う、おれは殺人そのものについての罪を感じているわけじゃない。

 おれは誰よりも誠実なふりをして、自分の命が死体の山一つ分よりも大事に思っている。それがおれの一番の罪過だ。

 *

 人間が痛みを耐えられるのは、いずれその痛みを忘れられるからだそうだ。人に一番の苦痛を与えるには、肉体への物理的な痛みよりも心理的な痛みのほうがより効果的だってこと。それなら、心理的な痛みを与える要因を取り除けば、もしくは他人を全て排除してしまえばこの世は楽園なんじゃないか……?
「山岡さん?」
「あ、どうも、おれが山岡蓮治です」
 無駄な考え事をしているところへ唐突に話し掛けられて、間抜けな自己紹介をした。ショートボブというのだろうか、明るい栗色の髪の中で、天井のライトを受けて光る丸い瞳と鼻の頭が間接照明のようだ。
「お待たせしちゃってごめんなさい、えーっと庄田君から聞いてますよね。笹原美穂です、はじめまして」
「はじめましてじゃないですよね」
「あっ、そだそだ、あはは、ごめんなさい。ちょっと緊張してるみたい」
 矢継ぎ早に自己紹介する間接照明──違った、笹岡さんに、「そんな緊張することないですよ」と言って向かいのチェアを引く。彼女はどうもと答えて腰を掛けた。
 敦の指定した和風ダイニングバーの店内は、平日の夕方にも関わらずほとんど満席になっていた。あちこちで賑やかな話し声が咲いている。
「夕飯、まだですよね」
 まだと言うと、笹原さんはテーブルの端に立てかけられていたメニューを取り、先に注文した中ジョッキが出て来るまでに真剣な表情で選びだした。
 笹原さんはよく食べよく笑う人だった。どうやら緊張だけではなく、もともとお喋りが好きらしい。目の前に人の形をした相手さえ居れば地球が崩壊しても口だけは動いているのではないかというほど、いつまでも饒舌にお喋りを続けた。大きな瞳は全方向に向けて笹原さん自身を放射していた。
 年齢の話からはじまり、昨日見たテレビの話、会社の愚痴、同僚の女の子とそのだらしない彼のこと、おまけに昨日見た夢の話──信じられるか? 本当に夢の話までしたんだ──時折相槌を打つのを忘れると、無邪気にきょとんとした表情で顔を上げた。それは睨むとか見つめるとかではなく、両親の情事を見つけてしまった子どものように、何で? とでもいうように。
 おかげでおれは自分のことをほとんど、アケミのことも含めて何も話さずにすんだ。女の子は未知の存在に対していつも尊敬の眼差しを向ける……というのは酷い偏見だろうか。自分に対する言い訳を考える間でもなく、おれには二人に対する罪悪感があきれるほどなかった。
 それでも途中、唯一の共通の知人である敦の話題にだけは口を挟んだ。
「敦……っと、庄田って職場ではどんな奴なの?」
「うーん、いい人ですよ」

 それからバーに場所を変えて飲み直し、目的もなく街を歩き、夜九時半を少しまわった頃、笹原さんが部屋に行きたいというのでタクシーでマンションまで連れて来た。
「ねえ、テレビつけていい?」
「いいよ」
 笹原さんは部屋に対する簡単な感想(綺麗な部屋ですね)を述べてからベッドの淵に腰掛け、手慣れた様子でリモコンを操作した。おれはキッチンから戻ると、日本ではないどこかの青い海岸線を楽しそうに走る、かろうじて顔だけは見覚えのある女優と男優の顔を横目で見ながら、リビングテーブルに冷えた缶ビールを二つ、コップと一緒に置いた。
「間に合った、まだ主題歌だ。私、このドラマ好きなんだ。来週で最終回だから、どうしても今回見たくって」
「ああ、それで」
 自分の家へ帰って見たらどうだ、ということは勿論言わない。
「ごめんね、何か見たい番組あった?」
「いいよ、元々あまりテレビ見ないから」
「あ、それじゃドラマつまらないかな」
「平気。見なよ」
 一缶を半分ずつコップに注ぎ、わずかに余った分を補充したコップを笹原さんの前へ置く。コップを手渡すと、笹原さんは満面の笑みでそれを掲げた。
「ありがとう、じゃ、かんぱい!」
「はい、かんぱい」
 コップ同士のカチンという音と同時に、あ、始まったと言って笹原さんがドラマに集中し出したので、おれはようやく相槌から解放され、無言でビールに口を付けた。ドラマが二度目のCMに入り、どうにも座りが悪く二缶目のプルトップに手を掛けた時、突然笹原さんが口を開いた。
「よかったぁ」
「なにが?」
 当然訝しがるおれに、ほとんど減っていない飲みかけのぬるいビールを両手で包むように抱えて、上目遣いに続けた。
「やっぱり、山岡さんっていい人」
 軽々しく手を出さないことへの安直な感想だった。
 正直言って抱くような気分ではなかったし、ここ数カ月ときたら別の女性(勿論アケミだ)のことで肉体的にも使い物にならないだけなのだと言ったら、笹原さんは怒るだろうか。怒らせてみたい、という気もする。一方でわざわざ恥を増やすようなことはしたくない、と思う自分もいる。まるで悪意を表にだすことが英雄的行為のようだ。自分には絶対出来ないヒーローの超能力に、例えば、半端な少年が路地裏で取引されている違法ドラッグに憧れるように──憧れた。そう、まるで麻薬みたいだ。判断力を奪い、理性を奪い、痺れさせ、徐々に命と精神を蝕むアケミという麻薬──アケミ。
 おれは笹原さんを通してアケミを意識しながら、あるはずもない盗聴器の存在を疑った。むしろ仕掛けられていればいいのだ。彼女が聞いているとも知らずに漏らした独白や笹原さんとの会話を聞いて彼女が死んだならば、彼女を殺したのはおれではない。彼女自身にある。……なぜおれはいつも言い訳を探しているのだろう。
 気が付けばおれは、笹原さんをアケミを満足に殺すための道具に見立てていた。どうりで罪悪感が湧かないはずだ。彼女(笹原さんのことだ)はおれのなかで人ではなく、道具だった。間接照明のままなのだった。
 おれは多分、半分おかしくなりかけているのだろう。見方を変えれば正常に戻りつつあるのだろう。アケミによって間接的に気づかされたおれ自身の問題で。

「ドラマ終わったよ」
 笹原さんの言葉でおれは我に返った。テレビはエンディングテーマにのってタイトルバックを流していた。
「じゃあ駅まで送るよ」
「そんな、いいのに」
「ここら辺は街灯が少なくて危ないんだ」
 さっさと立ち上がって玄関に向かうおれの背中に、笹原さんは言った。
「山岡さんって、本当にいい人だね……」
 駅へ向かう途中、笹原さんは人が変わったように無口だった。駅前のロータリーまでつくと、やっぱりタクシーで帰るというので乗り場まで案内した。次はいつ逢えるのかという問い掛けに曖昧に敦を通して連絡するとだけ答えた。タクシーに乗り込む際、わたし結構本気だから、と言って唇が触れるだけのキスをされた。おれの気持ちを勝手に解釈しやがって、とか、人前でなんてことをしやがるんだ、とは勿論口が裂けても言えない。例え照明相手でも。

 *

 電話が鳴る前に、敦の携帯へ電話する。アケミの自傷には周期が無く、一ヶ月以上何も行動を起こさないかと思えば三日連続して自傷に走るといったこともあり、いつ母親からあの涙声の電話が来るかわかったものではなかった。ただ決まっていたのは、いつも深夜だったということだ。まともなリズムで暮らしている日本人が電話をする時間ではない。そんな時間帯に掛かって来る電話は親戚の訃報か、悪戯電話か、考え無しの国際電話だけだ。おれの電話番号を知る親戚は少ないし、海外に知人もいない。
 それが確実におれが自宅に居る時間帯だ、ということは、考え過ぎだろうか? いや、きっとアケミは全てわかってやっているのだろう。アケミはおれのことをいつも見ている。おれの中で彼女が薄れ、おれが彼女の手を離れそうになった瞬間にアケミは腕を刻む。なぜならおれたち二人はひとつの──敦が出る。
 おれは受話器を左手に持ち替えて、煙草に火を付けた。
「昨日、笹原さんと会ったよ」
「ああ、彼女から今日聞いたよ。お前のことえらく気に入ってたぜ」
「そう」
「すげえいい奴とかなんとか」
「前も聞いたし、本人からもそんなこと言われたな」
 敦はははっと軽く笑ってから少し黙った。笹原さんの中では、異性の評価はいい奴とそうでない奴の二種類しかないのだろうか。
「なあ……」電話口を通して聞こえる敦の声は、ひどく言い辛そうだった。「余計なお世話かもしれないけど、お前明美ちゃんと別れた方がいいと思うよ」
「おれもそう思う」
 おれは正直に答えた。
「相田達じゃないけどさあ……明美ちゃん、お前に依存しすぎてると思う。偏愛にしか思えない。ナオはあんなこと言ってたけどおれはそんなレベルで納まる話じゃないと思うんだよ。まあ、直接彼女に会ったこともないのに偉そうなこと言える立場じゃねえけどさ……お前にとっても明美ちゃんにとっても、その方がいい気がする」
「おれもそう思うよ」
「だから、さ。笹原と付き合えとは言わないけど、これ以上お互いの傷が深まらないうちにケリつけたほうがいいと思うんだ」
「そう出来ればいいと思ってる」
 肺に溜まった煙草のけむりを窓に向けて吐いた。網戸に止まっていた一ミリ程の小さな羽虫が、電池切れの玩具のようにぽたっと落下した。
「そっか、それならいいんだ。わりぃな、色々突っ込んだこと口出しちまって。でも最近のお前ちょっと変だったから、心配なんだよ」
「大丈夫だと思う」
「本当に一人で大丈夫か?」
「多分ね」
 おれは頭の中で笹原さんを抱いてみたが、手も足も上手く動いてはくれなかった。代わりに笹原さんのドナルドダックみたく尖った唇だけが、愚にも付かないようなお喋りを延々と続けているだけだった(アケミは可哀想、アケミは女の子、助けてあげなくてはならないならないならない……)。
 敦は続けた。
「仮に……仮にだよ、別れがきっかけで明美ちゃんが死んでしまったとしても、それはお前のせいじゃないからな」
「そうかな」
「そうだよ」
「法律的にか?」
「法律的にも、倫理的にも、他人から見てもそうだよ」
「でもそれは、おれがそう思えないと意味がないことなんじゃないか?」
「……そうだな。やっぱりお前は優しすぎるんだよ」
 違う。おれはおれしか可愛がれない残酷な奴なんだ。奈緒子の言った通り、自分のことばかり考える冷酷な人間なんだよ(だっておれは、出来ることならお前に代わってほしいとさえ思ってるんだぜ?)。
 おれは奈緒子とのことで、ひとつ嘘をついたことを謝らなければならない。
 おれにとって奈緒子は忘れられた想い出なんかじゃなかった。おれは奈緒子と一度だけ関係をもった、大学三年のゼミ合宿でのことだ。当時はまだ彼らはつき合っていなかったし、おれと奈緒子とはその一度きりだったし、三人とも誰ともつき合っていなかった。当時も今も、奈緒子のことを性的に見ているわけじゃない。なのにそれ以来、ずっと敦には負い目を感じていた。おれは敦に会う度に自分を恥じた。敦は本当にいい友だ……いい奴で……彼を裏切ったことを、裏切っているように感じていることを心底恥じ入っていた。  だからおれは、敦も奈緒子もいなくなってしまえばいいと思った──思ったのだろうか?
 本当はきっとどうでもいいんだ。おれの気持ちに修復不可能なヒビが入ることだけが怖いんだ。そうだろう? おれたちはみんなそういう生き物じゃないのか? それともおれは、まだおれの気持ちを偽って──偽っていることに気づこうとしないで──いるのだろうか?  彼女を殺すための言い訳が、そのまま彼女を殺せない理由になっている。
 アケミさえ、最初からいなければいいのに。


* 尖端の記憶 *

  雷雲はとうとう庭までやってきた。
  雷鳴は轟き、閃光は空を駆け巡る。
  美しかった庭は焼け、鳥は堕ち、花々は種を残す事もなく燃え尽きた。
  炎で輝く家の窓から庭の主はただ笑う。流す涙もなく笑う。
  庭の騎士はそれを見て、己も流す涙もないことを知る。
  しがない銅の塊は、はじめから何も術がなかったことを悟る。
  焼け跡に残るは己のみ。泣きも笑いもしない銅の塊が二つ。

 未来のことなんて考えたくない。そう言って彼女は剃刀を手にする。
「やめろよ、そんなこと」
 希望なんて馬鹿げてる。希望がなければ不安もないわ。目を伏せて彼女は自分を傷つける。
「助けてほしいのか?」
 アケミはぽろぽろと涙をこぼして頭を横に振った。
「おれはどうすればいいんだ?」
 ただこうしていてほしいの。わかるでしょ、わかるよね? 彼女はおれの手を握ろうとする……おれはどうしていいのかわからなかった。いや、わかっていた。わかっていたがどうする気にもなれなかったんだ。
 だっておれには自分自身ほど嫌いな人間はいないんだ。


** 見捨てないで **

 毎月第三火曜日はアケミが病院へ薬を貰いに行く日だということを、おれは忘れていない。どの新品のカレンダーにも見えない丸印が付けられていて、おれに忘れることを許さない。
「敦抜きで会うなんて久しぶりじゃん」
 郊外へ向かう大通りで、手にしたバッグをブラブラさせながら奈緒子は言った。
「どしたの、何か相談?」
「ああ、そうだんだ」
「……えーと、なにそれ、ギャグ?」
「そうだんですよ」
「うわ。出た二連発。サムすぎるんですけど。もしかして蓮治君って、女の子と二人きりだとはりきりすぎてサムいネタ飛ばしまくる人?」
「どういう人だよ」
「あ、それはいつもの蓮治君だ」
 おれは一緒になって手をブラブラさせながら、はたと気づいて──ふりをして──さりげなく言った。
「とりあえず腹減った、あのファミレスに入ろう」
 最近おれはよく笑うし、人を笑わせようともする(自分でも信じられないような酷さだけれど)。感情の振れ幅をゼロにしようと努めれば努める程、まったく可笑しくもないのに笑いが零れる。心の端に隠して圧縮したはずの感情が、丸一日火にかけっぱなしだったビーフシチューみたく煮詰まって、時折隙間から漏れだすようだった。
 目の前のファミレスに入った。腐ったミルクの匂いがするのは気のせいだ。
「窓際が空いてる。そこでいい?」
「え、別にいいけど、日に灼けるような場所は嫌いって言ってなかったっけ?」
「おれそんなこと言ったっけ?」
「うん、確かゼミ合宿の海水浴で」
 奈緒子達はいつでも忘れるための会話を覚えている。忘れてしまいたいことは忘れる。忘れてはいけないことは最初から知らなくていい。それが健全に誠実に社会生活を送るための第一の関門なのかもしれない。

 注文したランチセットのアイスコーヒーが目の前に置かれた。冷えたコーヒーを啜りながら、いつでも美味しい天国の餌を待つ間、奈緒子はいつもと変わらぬ口調で言った。
「それで、何よ」
「うん、実はさ……アケミのことなんだけど」おれは奈緒子が相槌を打つのを待ってやった。「あれから色々考えたんだけど、やっぱり奈緒子の言っていたことが結局は一番正しいのかなと思って」
 そう言った途端、ほらねとでも言いたげに奈緒子の顎が上向いた。
「蓮治君もやっと気づいたか!」
 これが今日でなければ、第三火曜日でなければ、おれは奈緒子を頭の中でめった刺しにしていただろう。だが殺さなかった。そのままにしておいた。これからアケミを殺すのだ……想像ではなく現実に、彼女を死へと追いつめて──目が合うまではたった数秒間だったはずだが、おれはその間に数リットルも汗をかいた。熱が急速な勢いで放出されおれの身体を凍らせた。奈緒子は固まったおれを見て、それから右を向いて視線の先を追った。
「誰……?」
 ガラスと灌木の向こうに、痛々しいほど痩せぎすで、季節外れの長袖の裾から包帯を覗かせた、見ただけで自分の病的な部分を刺激されるような女の子が立っていた。
「明美ちゃん?」
 奈緒子が悲鳴のような声をあげた。ファミレスのよく磨き込まれたガラスを視線がすり抜けた。駆け出していったアケミの背中がどんどん小さくなる。アケミはどこへ行くのだろう。病院へ戻って、タクシーを拾って、家に戻ってからそれからどこへ行こうというのだろう。
「どうしよ、どうしよう? どうしよう!」
 思わず席を立った奈緒子が、中腰のまま慌てふためく。おれは顔を伏せ気味にして、目玉だけでもう誰もいない表通りを見た。
「どうするも何もないよ」
「だって、彼女蓮治君の恋人でしょ? 何度も自殺未遂してるんでしょ? 今の絶対誤解されたよ、どうしようあの子が手首なんて切ったら……」赤い顔が真っ青になった。「あたしのせいだ」
「いいんだ、どうせ言ったって無理なんだよ、間に合わない」
「よくないよ! あたし、ちゃんと誤解だって言って来る!」
 奈緒子は勢い良く立ち上がり、驚きと好奇で固まっている他の客や店員達に目もくれず店外へ走っていった。おれは奈緒子が席を立つ時に倒したアイスコーヒーが、テーブルを横切って静かにおれのジーンズに広がっていくのを眺めていることしか出来なかった。
「救うことも出来ないのに、何故そんなに必死になれるんだ……それは……偽善じゃないのか?」
 緩慢な殺人は、おれには荷が重過ぎたのだ。おれが一番恐れていたことを、おれは自らの手で、それも一番最悪な方法で行ってしまった。
 おれは怖くなって奈緒子を待たずにファミレスから逃げ出した。足が震えて上手く走れなかった。

 *

 疑惑と憐れみで精製された涙の塊が電話線を介しておれの部屋を占領し、おれはあっという間に内蔵までびしょ濡れになる。一定の間隔で鳴り響く電子音はおれ自身の悲鳴だ。螺旋を描いた電話機のコードが、直立不動のおれの腕に蔓のように巻き付いてくる。おれは受話器をとった。
「蓮治か? おれ、敦だけど」
 ああ、と返事をして、敦が聞き辛いことを聞き出さないですむよう、自ら奈緒子のことを持ち出した。
「ああ、あの後結局見失ったらしい。ナオのやつ怒ってたぜ」
「ごめん、勝手に帰っちゃって悪かったって伝えておいてくれないか。何だかパニクっちゃって仕方がなかったんだ」
 敦はしばらく無言だった。これほど沈黙が恐ろしいものだとは、いまだかつて知らなかった。
「お前、奈緒子を共犯にしようとしたろ」
 おれの全身は瞬時に金星よりも凍り付いた。それなのに口だけが、肉と肉の合わせ目だけがまるでおれの意志とは関係ないように饒舌に語りだした。
「何がだ? あいつと会ったのは本当に偶然なんだ。普段引きこもってる奴だし、まさか外で合うとは思わなかったんだよ。だいいち共犯ってなんのことだ? 奈緒子がそう言ってたのか?」
 あの夜奈緒子は言った──今夜のことはお互い忘れましょう──奈緒子は実際その通りにした、少なくともおれの読み取れる表面上は。おれはその言葉を含めて忘れなければならない。あの時思った全てのことを忘れていかなければ生きていけない。生きてなんかいけない。
「いや、ナオはただお前が何もしなかったことを怒ってるだけだ。おれはお前が……」敦は言葉を切って鼻を啜った。今にも泣き出しそうな声だった。「悪い、変なこと言っちゃったな。お前はそういう器用な奴じゃないもんな。今言ったこと忘れてくれ」
 奈緒子と寝た夜から半年後、おれは知り合ったばかりのアケミと寝た。アケミは言った──今日のことをずっと忘れないで──
 おれはきっと忘れられないだろう。
「まあ気にしないでくれ……また近いうちに飲みにでもいこうぜ。明美ちゃんのこと落ち着いたら連絡くれよ」
「ああ、気にしてない、はは、また電話するよ……ああ……お前は本当にいい奴だな」
 受話器を置いてからも、敦の言葉が耳の中でこだまする。
 吐き気を感じ、慌てて駆け込んだ洗面台でおれは絶句し──吐くことすら忘れ──立ち尽くした。自分が喋っていることが信じられない。お前は本当にいい奴だな。お前は本当に共犯にしようといい奴だな共犯お前はお前はおれはおれは
「……ああああ!」
 またあの他人の声だ! 喉の奥から呻きが絶え間なく漏れる。何もかもがアケミのせいだ。こんな醜いおれ自身も、友人との亀裂も、何もかも全てアケミの、おれの、醜いアケミとおれの──
「畜生!」
 おれはアケミに向かってなりふり構わず大声をあげ、顔面を拳で殴りつけた。
「むかつくんだよ、そうやって、俺が無視出来ないのを知って、手首切ったりするとこ、むかつくんだよ!」
 アケミは口や鼻から血を吹き涙を流しつつもなお笑い、おれの名を呼び、手招きをする。アケミの手。アケミのかさかさの手。おれの手。おれはアケミの名を呼び、おれに向かって手招きする。鼻につく消毒薬の匂い消毒薬の匂い消毒薬の匂い!
「チャチな自尊心を傷つけないためにそうやって生きてんだろ? いい加減認めろよ! いや認めてるんだ。自分なんて、人間なんて必要ないって。必要のない人に必要とされて、必要のない人の役に立って、何になる? そんなもの全て意味がないってわかってるんだろ、だから死のうとするんだろ。泣くのはやめろよ。その首を絞めてるのは、お前自身の手なんだぜ!」
 おれは側にあったグラスを取り上げ、思い切り振りかぶった。
「おれとそっくりなおまえのそういうところ、大っ嫌いなんだ!」
 叩き付けたコップが、アケミという名のおれの残像とともに鋭い音を立て粉々に砕け散った。はっきりと明確に、おれと彼女の間で。
 その時、おれはおれの自尊心を傷つけずアケミを殺す方法を、唐突に理解したのだった。

 アケミを見捨てる──おれ自身が一番望んでいたはずの決心をするために、今までどれだけの時間を失い、またこれからどれだけのものを失ったとも気づかずに失うことになるのだろう。
「俺は明美を見捨てる」
 亡霊は去った。決意をあらたにするため声に出して自分自身に宣言し、そうしておれと彼女が他人であるということを実感し、おれが彼女を見殺しにしても罰せられない免罪符を手にした今、彼女に対しての感情が恐ろしい程客観的になっていることに気が付いた。いや、どちらが先だったのかはわからないが、両親の、敦の、奈緒子の、相田達の目を通した明美がその時になって初めて、はっきりと見えたのだ。彼女は死に取り付かれた一人の憐れな他人にすぎない。手首とともに切り刻まれていたのはおれではない。明美そのものだったのだ。  ヒビの入った鏡の中には、おれそのものだけがいる。
 もう一人の自分との決別、それはおれに何ともクリアな視界をもたらした。おれには最初からわかっていたはずの答え、記憶に隠されて見失っていた簡単な答えだ。
 また電話のベルが鳴った。ワンコールで出る。相手の話を聞いた後、おれはタクシーを手配し、すぐさま家を出た。

 今にも雨が降りそうだ。遠くで雷の音が聞こえる。

 *

 おれは通された明美の部屋で彼女を見た。触れれば折れてしまいそうなでこぼこの薄いつめ先と、止血されたばかりの傷だらけの腕、青白いうなじ、それから顔を見た。弱りきった小動物のようだった。
 おれは彼女の無気力な顔に向かって大げさに叫んだ。
「さあ病院へ行こう。君は今病気なんだ。それだけだ。やっと決心がついたよ。君の病気が治るまで、僕も付き合うから」
 熱い息に熱を奪われるかのように全身が、髪、爪、角質、おれの死んだ細胞、生を失ってもまだ必要とされていた細胞たちまでもが急速に冷えていくのがわかる。感情がドライアイス・センセーションを起こしてヒリヒリと冷たい熱を帯びている。
「君は病気なんだよ、心の病気なんだ」
 おれが明美の命の灯火を消し去る嵐を演じる最中、明美の母親は救い主でも見るかのような眼差しで泣いていた。悪意のない殺人犯……あるとすればそう、正義感だ。おれは明美を救ってやるのだ。あとに残るのはなにか? きっと満足感だ。
 薬疹で腫れた頬の中央で微かな音がしたけれど、それを聞き取ろうとは思えなかったし、聞き取れる程大きな声ではなかった。かわりにおれは彼女の耳元で、
「君だけの病気なんだ」
 とどめを刺した瞬間、自分がうっすらと微笑んでいるのに気が付いた。それは喜びでも憎しみでもない、憐れみという感情らしかった。



 マンションへ戻った頃は酷い雨で、タクシーからエントランスへ向かうほんの数秒でおれはずぶ濡れになってしまった。つま先立ちで部屋に上がり、バスタオルで足だけを拭ってから、革靴に丸めた新聞紙をつめた。一面トップを飾った話題の殺人犯のみじめな背中がみるみるうちに湿っていく……明日も仕事だ……それまでに乾けばいいが……。
 それから、電話線を引っこ抜き、割れたグラスを片付け、必要以上に長い時間をかけてシャワーを浴びた。もう深夜二時だ。早く寝なければ明日に響く。
 狂ったような雨でサッシが揺れている。ひんやりとしたベッドシーツにくるまれて、細く短い針金の束をぶちまけたような出鱈目な豪雨を見ながらおれは、たまには傘を刺さないのも良いかもしれないと思っていた。


*** これからのことを話そう ***

 彼女が死んで一年。墓参りにも、彼女の実家にある仏壇に手を合わせにいくつもりもない。両親は残されたノートを詩集として自費出版するつもりなのだそうだ。それが終わってからも、彼らには今後色々とやりがいのある仕事があることだろう。おれは協力要請をやんわりと断った。

 おれは一人だ。ひとりぼっちのおれが選んだ道は、進んで人間達の実験体になることだった。
 社会に溶け込み共通話題のバリエーションも増えた。この国の言語をはじめて理解したような気分だ。おれは新しい彼女に笹原さんを選び、会社帰りに駅前のスターバックスで待ち合わせてデートを重ねた。それは週刊誌に載っていたレストランや行きつけのバーだったり、おれのマンションだったり、彼女の実家だったりする。彼女の好きなドラマを付き合って見るうちに、いつの間にか続きが待ち遠しくなった。お互いいい歳なので近いうちに結婚することになるだろう。おれは近い将来の幸せな結婚生活と、遠い未来の自分を簡単に想像することが出来る。時には寝物語に喋り合うこともある。
 おれたちは未来のことばかり考える。十年後、二十年後、三十年後、二人がどんな家庭を築いているのか、二人の子供がどんな大人になっているのか、世間ではどんなファッションが流行っていてどんなドラマを繰り広げているのか、おれたちは──おれと彼女は──今日よりも明日、今よりも空想ではない未来の現実ばかりを考える。
 最近はじめて買った携帯電話に、敦から週末飲みに行こうと誘いが入る。理由もなく集まり、泥酔しない程度の酒を飲み、翌朝少しばかりの頭痛に苦笑いしながら出社することも、今では楽しいと思う。敦と奈緒子はいつの間にか別れたが、おれとはそれぞれに付き合いがある。あれ以来人が変わったように付き合いやすくなった、と二人は言う。
「きっと、あの頃は蓮治君も病気だったのよ」

 「病気」から回復したおれは、すこぶる快調だ。息をすることも、歩くことも抜け殻のように楽になった。おれは自分自身に鈍感になり、世の中の表層を流れる現実にとても敏感になった。そのぶん、この世界はとても生きやすい。自分が幸せだと思うことさえある。幸せはおれの脳のところどころに丸い穴を開け、確かに痛みだったはずの過去の細胞への道を塞ぎ、なかったことにしてくれるのかもしれない。そして終わりには、おれの名も声も顔も匂いも、明美も、この地球に存在していたということも、きっとなかったことになるのだろう。
 予測しやすい未来に向かってただ一瞬、輝きもせず、束の間の眠りのようにすごす時間。同じ一瞬ならば、おれは無感覚に、眠るように、瞼を閉じて過ごしたいと思う。

 明美の──彼女の──最期の言葉を、おれは完全には忘れられないだろう。時折思い出すこともあるかもしれない。けれど、だから、なんだというのだ。
『とうとうひとりぼっちになってしまった』
 思い出したところでおれの心は何一つ揺れ動くことはない。おれは完全な健康体なのだから。

 おれたちはどこまでもひとりだ。

『Piece2 空飛ぶ翼』2005-04-18

050418

※小説未満のおはなしのかけら。というかただの小説の覚え書き。導入部。挿し絵はあんま関係ないです。

 少年は眼下に広がる町並のはるか上空を自由に舞っていた。彼は風と自分の身体の使い方を心得ていて自由そのものだった。
 それはこの出来事が現実ではなく夢の中であることを物語っていたが、少年にとって今が夢であることも、夢でなくてはならないことも問題ではなかったし、気づく必要はなかった。
 彼は自分がかつて人間であり、十四歳の少年であり、片田舎の町に叔父と二人で暮らす孤児のパリス・コートンであったことを忘れた。パリスはいまや一組の翼だった。顔も足もそしておそらく内臓器官もない、暑く湿った森の鳥を思わせる鮮やかな極彩色をした翼が、見事に上昇気流を捕らえ天高く舞い上がってはなめらかに滑空していく。空は色とりどりのシュプールでクリスマスプレゼントよろしく飾られ、その中で少年の以前は目であった部分は上へ下へと流れる雲を追って忙し気に回転し、頬は翼に切り裂かれて後方に逃げて行く空気の粒を心地よく受け止めた。
 それでも少年は自らがただの翼であることに疑いを抱かなかったが、視力の限界の先に空と陸との境い──次第に起伏に富んだ輪郭を失っていくぼんやりとした地平線──を見つけた時、ふいに少年達特有の好奇心が彼の中に戻ってきた。翼は一度空中でジャンプして重力の助走をつけると、真直ぐ先を目指した(この世界はどこまで続いているのだろう)。翼は途方もないスピードで世界のふちに向かって飛んだ。するとほどなく翼の身体に異変がおきた。左右の羽根が次第に重くなり、だらりと真下に垂れ下がった。固く冷たい氷の粒が惰性で飛び続ける全身を容赦なく傷つけ、親の敵とでもいうように叩き付ける空気の塊は身体の表面にある水分を残酷に奪っていった。少年は自分の両腕がいまや軽やかな羽根ではなく骨と肉とで形成された紛れもない肉体であることをしり、同時にこれは夢であると悟った。その考えは闇を二つに分ける雷光のように唐突に、絶対的なものとして彼の脳裏を襲った。パリスは咄嗟に両手で耳を覆った。
 夢の世界に裏側はあるのだろうか。夢の世界はどこまで構築されているのだろうか? 僕が認識出来る、触れることの出来る、見ることのできる世界の先にはいったい何があるのだろう。広大な、狭小な、温度のない虚無か、全ての事象と時間と物質が無秩序に混ざりあう混沌か、あるいは同じ風景のコピーの繰り返しか──視界は端のほうから色を失っていった。少年の極彩色は混じりあってうす汚い灰色になった。身体はもはや完全に浮力を失い、彼は際限なく質量を増し続ける重い肉体を抱えたまま、地面に叩き付けられるのを恐ろしく長い時間待つしかなかった。

 パリスは目を覚ますと、小さな指先で上下のまぶたを擦り合わせ、よれたパジャマの裾に目やにを落とした。何万年の眠りから覚めたかのような緩慢な動作で起き上がり、昨日も一昨日もそうしたように、ズボンのゴムの締め付けで赤く色付いた腰を引っ掻きながら、顔を洗うために洗面所へと向かった。
 ベッドルームに隣接した専用の広いバスルームで──叔父は裕福で、変わり者だった──習慣的にうつろいつつある夢の名残りを掻き集めながら鏡の前に立つと、同時にもう一人のパリスが彼を覗き込んだ。
「おはようパリス」
 彼は両親が生きていた頃からの癖で鏡に映った自分自身に挨拶し、まだ眠気が覚めていないのか、直立の姿勢のまま姿見を眺めた。
 端からみれば思春期の子どもがナルシシズムに酔っているのだと思ったことだろう。だが彼の目の焦点、昨日も一昨日もその前もそのずっと前からも見つめ続けてきた自分の顔、それは彼に思いも寄らぬ不安を与えた。そばかすの浮いた白い肌にプリントされた眠た気な瞳と、やや上向いた鼻と、薄い唇をぼんやり眺めるうち、それらがまるで一切の法則性もなく、ただランダムに、幼児が積み木を組み立てるふうに配置されているように思えてきたのだ。これこそが遺伝にのっとった人間の顔のあるべき姿なのだと理解するのに一瞬間かかった。そうと納得した後でも、じっくりと見れば見る程、目の当たりにしている彼が本当に昨日見た自分と同じだったか、昨日の自分は鏡を見たのか、いったいいつ昨日が終わって今日がはじまったのか、刻一刻と確信が揺らいでいく。そもそも僕は何だったか? パリスはギクッとして、そこらに散らばっているものを手当りしだいに触れていった。これはなんだろう──鏡だ。ガラスの裏側に金属を吹き付けたもの、姿を映すためのもの。これは歯ブラシ、プラスチック・ナイロン・歯を磨くもの、これは石鹸、油脂と水酸化ナトリウムの科学反応の結果・酸性の汚れを落とす、これは口臭予防薬、ラベルを剥がしてしまったため内容物は不明。そして僕は──
「僕は人間だろ」
 目の前の分身の唇が動いて、彼に答を教えた。生命、多細胞生物、精神、肉と血あるいはひからびたパンと出来の悪い赤ワイン、水分とタンパク質、その他。でも何のためのもの?
 パリスは思わず身震いして鏡よりやってくる視線から眼を逸らし、腰を屈め、洗面台に手をついてもう一度夢の内容を思い出そうとつとめた。寝汗で濡れた額の生え際にもう一膜の汗が浮かぶ。しかし今朝見た夢を思い返すにはもう遅く、気持ちよく清清しく同時にひどく嫌な夢だったという感情の断片しか思い出せなかった。十四歳の少年はしばらくの間立ち尽くした。バスルームの上部にある格子のはまった小さな窓から、四角い灰色の空が物言わず彼を見つめていた。

『Piece1 前触れ』2005-02-23

※小説未満のおはなしのかけら。覚え書き的なもんです。

 最初はただ怯えるしかなかった。彼の機嫌を損ねないよう、愛想を振りまくことに骨を折ったが、それも無駄だと悟ると今度は彼を無視した。無関心と不干渉、それはまったく逆効果だった。当時のジューズゥの暴れぶりを思い出すと、チュビックは今でも背筋がぞっとする。その悪寒は皮肉にも以後のチュビックにいっそうの我慢をもたらした──あの時よりはマシなんだから。結局最終的には、ジューズゥを夫でも、一人の男性でもなく単なるビジネスの相手だと思うことにした。自分と相手、両方の自我を殺しビジネスライクに徹することで幾分かは遣り過ごせた。だがそれも長くは続かなかった──合計してたったの二十年──彼女は多くのものを、とりわけ彼女の若い時間を下水に捨ててしまったことをある日突然知った。脱衣所の鏡の中にいる、日に日に削げて変わり果ててしまった自分とは思えないものをみとめて。
 結婚相手の本質を見極められなかったことは若気の至りだったとしても、彼女の取るべき正しい選択は、一番最初に頬を殴られた時に、すぐさま弁護士のもとへ行くことだった。だがもう遅かった。無くしたものは二度と手に入らないものばかりだ。
 彼女は若くはなかったが、もう無知な少女ではないのだ。無くしたお気に入りのイヤリングを未練がましく思っていた頃とは違う。彼女は職を探すことからはじめた。独身時代の看護婦資格が大いに役にたったし、社会生活は彼女の失いかけていた自信をあっという間に取り戻させた。今、チュビックは自立可能な女性であり逞しさを備えた母親だった。そう母親なのだ。一人息子のコリンが彼女に与えた多くのものの中で、もっとも役に立つプレゼントだった。

 ジューズゥは庭の一角に九十年式のピックアップを止め、汗とハンドルにこびりついた脂で汚れた手の平を作業着の脇で拭ってから、昨日やったのと同じく何千回となく見上げた我が家を見渡した。買った時からしなびたボロ家、オレの家。ドアの蝶番は錆きって開閉のたびにギイギイやかましい音をたてるし、年中吹き続ける風が砂漠の砂を運んでくるせいか、壁は黄ばんで埃っぽかった。そこかしこから嗅ぎ慣れた田舎の匂いがした。唯一の利点は隣家が両隣りとも一ブロック離れていて、プライバシーが保たれていることだけだ。
 運転の下手なチュビックがいつもドライブウェイをはみ出して何度も切り返すので、コンクリート製のポーチの端にヒビがいっている。週末に修理をしなくては──いや、どうせ直したってすぐに駄目になる。困るのはあいつで、オレじゃない。彼は溜め息をつくと、わざとらしくコンクリの欠片を蹴飛ばした。
 自分で鍵を開けてまっすぐにキッチンに向かった。出迎えはなかったが、さして気にはしなかった。ビールを飲んで、それからだ。チュビックに文句を言うのは。彼は冷蔵庫から冷えたビール瓶を持ち出し、水きり桶にあったコップを一つとるとリビングまでやってきた。チュビックは居間の端に所在なくぽつりとおかれたスツールに腰掛けていた。もう夜だというのにきちんとスーツ──ジューズゥの一番嫌いな短いスカートと派手な赤色の──を着込んでいる。くそっ、嫌な女だ。
 彼女は夫の姿を一瞥すると、おかえりも言わず、かわりに低い声で「出て行くわ」と言った。
 あまりに唐突のことに思えて、ジューズゥはピールとコップを腕に抱えたまま立ち尽くして目をしばたいた。なんだって? この家から、オレの家から、出て行く、だって? しばらくの沈黙のあとで出て来た言葉はたった一言だった。
「コリンは渡さん」
 予想通りの答。チュビックは浅く腰掛けたままわからない程小さく溜息をついた。妻にはどうであれ、彼が父親の名に恥じない愛情をコリンに注いでいることはチュビックにもよくわかっていた。だがそれとこれとは違う──コリンはチュビックにとっても最愛の一人息子なのだ。
 ジューズゥが暴力を振るうのは妻に対してだけで、それもきまってコリンが寝付いてからだった。
 今年で十二歳になるコリン、ブロンドの巻き毛と小さな顎のいまだ少年のコリン──そう言えばコリンが居ない、まだ眠る時間ではないのに。二階にある部屋の明かりもついていなかった──クソッ、ジューズゥは心の中で唾を吐いた。チュビックはとっくにコリンを家から出したのだ、おそらく養父母の家へ。
「残念ながら法律はそうは言わないでしょうね。私は母親で、職業と収入がある」
 彼女が自信たっぷりにそういうのを見て、鼻頭を殴って潰してでも止めるべきだった、と彼は後悔した。あの時、妻がもう一度働きたいと言った時、いつにもまして彼女が強情だったことを思い出したのだ。三日間腫れがひかない程頬を張られても、チュビックは退かなかった。
「それに私には酒癖の悪さもないし、何より配偶者を殴ることもない」ジューズゥの眉がびくっと痙攣した。「忘れているならお見せしてよ。お望みなら。私があなたに殴られたという医師の診断書がたんまりとあるわ。あなた知らなかったでしょう? なにか言い分があるなら、来週離婚調停でお会いしましょう。通知がいくはずだから」
「ば、ばかをい、言え」
 ジューズゥはどもって一旦言葉を切った。彼の手が、煩わしいもめ事に対して一番卑劣な解決方法を使おうとする徴候だ。
「か、片親なんてこ、コリンのた──」
「ストップ!」あくまでもひんやりとしていたチュビックの言葉が急に熱を帯び、ジューズゥは一瞬怖じ気付いた。
「私のため、コリンのため、他の人のため……そんなの言い訳よ。あなたはいつも誰某のためだなんて言って、結局自分のいいたいことを言ってるだけなのよ。本当に誰かのためを思って行動したことなんて、ただの一度もないくせに」
 チュビックは、今では新婚当初は多少は好いていたはずの夫の何もかもが嫌いだったが、なかでもジューズゥの説教が大嫌いだった。お前のために言うんだぞという口癖を聞くたびに耳をむしり取りたくなった。
 今夜彼の帰宅をわざわざ待っていたのは最後の情けのつもりだったが、狼狽する夫を見るうちに彼女の中の嗜虐心がむくむくと頭をもたげはじめた。時は来た、虐げられてきた気持ちをぶつけてやれ! 今こそ、今こそ、今こそ!
「なんだと?」最初の驚きからようやく立ち直ったジューズゥの大きな鼻がさらに一周り膨れ上がる。「いつオレがそんなことをした」
「あら、自分でわかっていないの? ならなおさらタチが悪いわね」チュビックは挑発するように嘲笑しながらも、彼の乱暴な手の届かない位置にまで後ずさった。「あなたは昨日もこう言ったのよ。もう忘れているかもしれないけれど、きっと言いたいことを言ったらそれで満足なんでしょうからね。教えてあげるわ。『そんな背中の開いた服を着て息子が見たらどう思う、近所の連中はなんていう? コリンやお前のためを思って言ってるんだぞ』とね」
 ジューズゥは急激に怒りが込み上がってくるのを、ソファに腰掛けることで何とか押さえようとした。妻の口応えが気に入らなかった。これが昨日なら、彼女は態度で応戦していたはずだ。沈黙という盾で。自分の口調を真似している様子も鼻に付いた。彼女の小馬鹿にしたような態度も、人妻らしくない露出度の高いドレスも、何からなにまで気に喰わない。何しろ妻には普段から人を見下すところがある、と少なくともジューズゥ自身には感じられた。彼のか弱い自尊心と南部出身者の劣等感には、彼女の媚びへつらいも無関心もあの何の期待も抱いていないとでもいうような視線もチクチクと肌をさす嫌な刺激だった。時折それが押さえられなくなって、いつもは彼に突き刺さっている小さな痛みのベクトルが逆向きに働き暴力沙汰を起こす──ということを彼以外の全ての周りの人々はわかっていた。彼の暴力がただの虚栄だということを本人が認められたならば、きっと事態はここまで悪化しなかっただろうに──だがもう遅いし、チュビックが諦めたようにはじめから無理な話だった。
「そんなこと」膝の上においた拳の中で、人さし指が震え出した。「そんなどうでもいいこと」
「そう、どうでもいいつまらないことよ。別にドレスのことを根に持っているんじゃない。そんなことすらあなたは誰かに……私やコリンに言責を押し付ける、私はそれが気に入らない。あなたはいつもそう、ために、ために、ためを思って。そうすれば言いづらいことを言った自分の良心が痛まずにすむのかしら? 利己的だと思われたくないから? あなたの面子が保つのかしら、それとも保たれているのは虚栄心? 言いたいことがあるなら堂々とおっしゃったらいいじゃない、今の私のように」
 チュビックは完全に引き際を誤った。それがわからない程自分が激昂していることに、大胆な自分に酔っていることに、そして彼の乱暴な部分は腕それ自体ではないことを思い出すにはもう時間がなかった。
「それとも私にもこう言ってほしい? ジューズゥ、あなたのためを思って言ってるのよ」
「黙れ、くそったれ!」
 チュビックは目の前が一瞬光ったのを感じた。額を、頬を、ぬめぬめする液体が流れるのを感じ、耳がカッと熱くなった。足下でガラスの爆発する音がして、ジューズゥがビール瓶を投げつけたこと、自分が飛んで来た瓶を避けきれなかったことを知った。不思議と痛いとは思わなかった。コリンの可愛い笑顔が浮かんだ。フローリングの床にくず折れる一瞬のうちに考えられることはそう多くはなかった。
「くそったれが!」
 ジューズゥは放り出した右手を握りしめ、もう一度悪態をついた。
 興奮物質が身体を一周し終えると、彼はとたんに怖くなった。倒れ込んだチュビックからぎょっとする程血が出ている。直系一メートル程の円になった赤い水たまりの中でスーツはその色を増し、もみくちゃになったブロンドから見える首筋がびくんびくんとひきつけを起こしている。ジューズゥは思わず目を逸らした。
「おい」反応はない。「おいったら、くそ」
 彼はチュビックから少し離れた場所で青くなったり赤くなったりしたのち、恐る恐る覗き込むと、血溜まりの中で炭酸の泡が弾けていた。そのほとんどはビールだった。無意識のうちに止めていた息を吐き出すと、血が付かないよう注意しながらうつ伏せになった妻の顔を持ち上げた。額は二倍にも膨れ上がり、青と赤のまだら模様の間から流れる血はまだ止まりそうにない。瓶の破片は鋭利なナイフよりもずたずたに彼女の額を裂いていた。そして弱々しいながらも脈はあった。
 まだ息がある。だが放っておけば死ぬだろう。オレはそのどちらにホッとしたのだろう──ジューズゥはソファの後ろ手のキャビネットに置かれた電話の受話器を上げプッシュボタンを押そうとしたが、指が震えて上手く行かなかった。
 ちくしょう!──深呼吸をするため目を瞑った。後悔だらけだ、本当にいいことなんて一つもありやしなかった。なんて酷い女だ。ビッチめ、くそ、何でオレはこんな女と結婚して、こんな女のために前科を作って、こんな女を助けるためにレスキューを呼ばなきゃならないんだろう。チュビックのために!
 ジューズゥは深く吸った息を吐いた。大したことはないはずだ、大した罪では……ちょっと行き過ぎた夫婦喧嘩だ。いい弁護士さえ雇えれば示談で済むかも……いやこいつはそうはさせまい、だが長くても数カ月ぶち込まれるだけで済むだろう。
 しかしコリンだけは手放すことになるだろう、決定的に。
「コリンは渡さん」
 そうだ、コリンだけは──ジューズゥは受話器を置いた。自分のために。もう指は震えてはいなかった。


 このあとコリンを連れてピックアップでの逃避行の旅がはじまったらいいのになあというところで了。

『共犯者の殺人』2004-03-10

※三年くらい前に書いた「ジュディおばさんの焼却炉 〜共犯者〜」のリメイク版のさらに手直し版。ノワール色が強くなったかな、という気がします。会話文が少し下品なので、苦手な人はご注意を。

<1>

 その夜響いた一発の銃声に、住民達は誰一人気が付かなかった。
 新月の夜だった。街灯の少ない寂れた住宅街の外れにある小さなアパートでは、ある部屋ではドラッグパーティーが、ある部屋ではゲイカップルの無防備なセックスが、そして四○五号室では一人の女の人生が誰にも気付かれることなく終わるところだった。
 レイは女の胸を撃ち、撃たれた女は即死した。死を迎えるまでは星の煌めきほどの時間も掛からなかった、もっとも今夜は星の一つすら見えなかったが。
 女は撥水加工を施された安物のビニールソファの上で、両手足を放りだした無防備な格好のままぴくりともせず固まっている。かわりに、湯気を立てんばかりのわきたての血液が女の重みで出来たソファの窪みに静かに流れ出し、徐々に血溜まりを作りかけていた。それ以外にこの部屋で動こうとするものは何一つなかった。
 レイは腕を胸の高さまで上げ、両手の平で拳銃を握ったままじっと動けずにいた。拳銃と指先は癒合し、足の裏とフローリングタイルの区別もつかない。どれくらい前にまばたきをしたのかさえ忘れてしまった。見開いたままの目の縁は乾き、濁り、瞳はただ漠然と目の前の光景を写し取っているだけで、それが何を意味するのか脳に伝えるのを拒否しているようだった。
 心臓が活動を再開し体中に血液が運ばれたドクンという音を合図に、やっとレイの耳にコンクリートの壁を越えて大音量で鳴り響く隣家のBGMが届いた。耳の感覚が戻ったのをきっかけに、麻酔から急激に醒めたモルモットよろしく、血溜りの中の女が見え、拳銃のぬくもりを感じ、むせかえる程の血の匂いに吐き気をもよおしたレイは、たまらず拳銃を放り出しバスルームへ駆け込んだ。蛇口を全開にし、洗面台に顔ごと突っ込んで今日の昼食を全て吐き出すと一瞬胸が楽になったが、排水溝から洩れだす生臭い匂いにまた気分が悪くなり胃液まで吐いた。これ以上出るものはない、というほど吐き終えた時にもまだ胸のむかつきは残っていた。
 しばらくつっぷした後のろのろと顔を上げると、備え付けの鏡に映った彼自身と目が合った。一瞬目をそらし、それから恐る恐るもう一度眺めた。顔からはまるで、自分自身が血を流したかと錯覚するほど血の気が失せ、後ろが透き通って見えるのではないかというほど色がない。その中で白眼だけが真っ赤に晴れ上がってぎらついていた。肩まで伸ばした金髪が、沼の藻のように頬にまとわりついていた。昨日まで幸せだったはずの自分の顔は、今は見る影もない。少しばかり顔が良くて、社会人の男として常識的な範囲の自由になる金を持っていて、やさ男だったレイモンド・ブラウンはどこにもいない。鏡の中にも前にも、今までニュースや新聞で何度となく見せられてきた殺人鬼の中で、もっとも立体的な殺人犯がいるだけだった。女を殺したレイモンド・ブラウン。人殺しのレイモンド。女の胸を拳銃で打ち抜いて、ビビリまくって動けなくなったあげくに胃液まで吐いた放心状態のレイ。彼は渦を捲いて消えて行った吐瀉物の中に紛れてそのまま逃げてしまいたかった。ここでなければ、下水道でもどこでも良かった。
 レイはその場に座り込んだ。彼は逃げられる場所などこの世にはないということを、たとえ殺人犯のレッテルから逃れられたとしても今日のこの感覚からだけはけして逃れられないことを、自分はそういう人間だということを知っていたから、もう座り込む以外に出来ることはないこともわかっていた。もう一生、この胸のむかつきが消えることはないのだ。
 じっと黙っていると、何も考えまいとしても自然に先程の出来事が反芻される。紫色のワンピースを脱ぎ、真昼の地中海色の下着姿になった女が自分の首に腕を回す。女はそれから誘うような腰つきでソファに寝そべり、こちらを見上げて笑顔を作り、股を開き──そして──銃は発射された。女は死んだ。驚いた顔をする暇もなく死んだ。
「俺が殺した」
 口に出してからようやく、これが夢でないことがわかった。もしかすると夢ではないか、という馬鹿な考えが何度か頭をかすめていた。俺が人を殺す? お人良しのレイが? おいおい、夢でも見てるんじゃないか? ほら、アイツも笑っているじゃないか──ソファの上で死んだまま。逃げられないことを充分過ぎるほど知っていて、それでも逃げたいとあがき、結局柵に首を挟んでとうとう何も出来なくなってしまった篭の小鳥のようだった。
「それでもやっぱり逃げたいんだ、俺は」
 それからふいに年老いた両親の顔が浮かんで、レイは火のついた赤ん坊のように泣きじゃくった。

 レイは泣き疲れ、何千年も風雨にさらされた川辺の小石のように、惨めったらしくぽつんと座っていた。彼の心は混乱の果てに現実と異なる世界へ旅だち、そこでは彼の目は消えて、鼻はしぼんで耳は千切れてどこかへ飛んでいってしまっていた。だから勿論、バスルームのドアの陰に男が立っていることにもなかなか気付かなかった。
 パーカーとジーパンというラフな姿の巻き毛の男は、何をするでもなくドア枠に寄りかかり、ぼんやりと小石を見下ろしていた。口角がゆるやかに上がり、微笑んでいるようにも見える。おかげでもう少しで殺人のことを忘れてしまえるところだった。自分が本当に小石になってしまったかとさえ思えた。男がやあ、とでも言うように軽やかに口を開き「アレ、君が殺したの?」と言うまでは。
 レイの思考は空想の世界から墜落して、真っ白になって弾けた。殺した女や今の自分の情けない顔、両親の顔が爆発的に砕けちり、本能的に男に掴み掛かってはバスルームのタイルに押し倒して馬乗りになった。
「……見たのか」
「おい、待てよ」
「見たのかと聞いている!」
「僕は待てよと言っているんだ」
 レイはパーカーの襟元を強く握り直すと、真上から男を睨みつけた。
「そんなことはどうでもいい! 見たんだな。あの死体を見たんだな。俺はお前を殺さなきゃならなくなった。俺は殺したくない。だが俺は逃げたいんだ、捕まりたくないんだ! ああ、ああ、そうだ、俺は捕まりたくないんだった!」
 レイは自分が何をしようとしているのか半分自覚し、半分夢うつつに男の首に手を掛けた。男は手に力が込められるタイミングを冷静に判断してから言った。
「大丈夫、わかってるよ。だが考えてみろ。僕を殺すのは簡単だが、厄介な死体が一つ増えるだけだぜ」
 命乞いをするでもなく、あくまで冷静に、余裕さえ見せて思いがけないことを言った男に、レイの頭はますます混乱した。腕が殺せと命令し、唇は震え、頭は停滞している。
「つ、捕まりたくないんだ、親父やお袋に、友達、ば、ばれたくないんだよ、かか、か、会社の上司も」
「オーケー。わかった。わかったよ。でもな、僕を殺すよりもいい考えがある。それを聞けば僕が死ぬ必要がなく、君は捕まらず、明日からも君として平和に生きていけるいい考えが」
 レイが喉元を締めようとした手を、男はほんの数秒喋るだけでいとも簡単に制止した。首を挟んだ小鳥の柵を、そっと押し広げるのよりも簡単に。
「どういうことだ?」レイは言った。「なに……何を言っているんだ? わからない」
「死体隠し、手伝ってやるよ。ここらのボンクラ保安官共にかかっちゃ、死体が見つからなければ殺人はなかったのと一緒だ」首を掴んでいた手がゆっくりと離れた。男は腑抜けになったレイをどかし、立ち上がってパーカーについた彼のよだれを払った。
「まあ落ちつけ。つまりこういうことだ。君のやった殺しの後始末を、僕が手伝ってやる」そしてしゃがみ込んで、万引きが見つかった子どものような眼差しのレイを見た。「ゆする気もないし、報酬もいらない。しいて言えば、俺を殺す権利を放棄してもらうだけ」
 レイの眉間はますます複雑に絡まった。
「ま、まだわからない。いや、言っていることはわかった。お、俺がわからないのは、何で見ず知らずのあんたがそんなことをするんだ、ってこと……。あ、あんたがするべきなのは、叫んで外に飛び出すか、911をダイヤルすることだけだろ」
 男は驚く程可愛気のある、屈託の無い笑顔を浮かべて「僕もあの女が気にくわなかったんだ。死ねばいいと思ってたし、今日も殺すつもりでここへ来た。それにあんたは言っただろ、『捕まりたくない』って」
と言った。


<2>

 男は自分をルディだと名乗った。
 二人はルディの指示で、女の死体を新聞紙で丁寧に包み、廊下に血が滴らないよう慎重にバスルームへと運んでいた。つい先程まではセクシーだった青色のランジェリーは、紫色に変色し小汚い雑巾のようだ。
「なあルディ。お前は何でここへ?」硬直しかけた死体の足首を掴み、また吐き気をもよおしている自分とは対照的に、まるで冷蔵庫でも運ぶかのようなノリの奇妙な男・ルディに、レイの好奇心が疼いた。
「さっきも言ったはずだ」ルディはつまらないことを聞くのはごめんだ、とでもいう様にぶっきらぼうに言った。
「気を悪くしないでくれ。俺が知りたいのは、お前は何者か、ということなんだ」
「僕が誰か? ずいぶんと哲学的なことを聞くんだな。それとも、僕がゲイであんたに首ったけだとでも思ったか? 僕はそれ程恋愛狂じゃないぜ、あんたみたいに」
「わかった、俺が悪かったよ。詮索するようなことはもうしないよ」レイは気まずそうに、ルディからも死体からも目をそらせた。ルディはそれを見てぷっと吹き出した。
「ジョークだ、悪かったよ。からかっただけだ。あんたの緊張を解きたかっただけだ」
「やめてくれルディ、こんな時に冗談なんて。俺はてっきり、マズイことを言ってあんたに殺されるんじゃないかとヒヤヒヤした」
「殺す? 僕が?」ルディは大げさに言った。「何で僕があんたを殺さなきゃならない」
「あんたの正体がわからないんだ。正直に言うよ。俺は最初、あんたが殺し屋か始末屋じゃないかと考えた。あるいは……いやどちらにしろ、イカれてる野郎だとも思った。けど、どちらもあんたには相応しくない気がするんだ」
「わかった、正直に話そう。君を不安にさせる材料は出来るだけ潰していこう。何、大した理由じゃないんだ」ルディは死体を抱えたまま肩をすくめて応えた。「あの女が町のチンピラ相手にケチな金貸しをしていたのを知ってるか?」
 レイの顔が曇った。彼は顔を横に振った。
「何だ知らないのか。まあいい。僕が今日ここに来た目的は、あの女に借金があったからなんだ」
「殺しに来たんじゃなかったのか?」
「それはそうだ……ああ、それにしても重いな、早くそこを開けてくれ」
 レイは片手でシャワーカーテンを開けた。死体をバスタブに投げ込むと、彼に言われるまま蛇口を捻った。
 ルディは腕を回し、一息ついてバスタブの淵に腰掛けた。「返せない金じゃなかったし、僕はいずれ返すつもりだった。そうさ、僕はそのつもりだったんだが、その時たまたま持ち合わせがなかった。だから今は返せない、もう少し待ってくれと言ったのさ。だがあの女、それを聞いて何て言ったと思う?」
 レイには何となく察しがついた……というのはごまかしだ。自分が今し方殺し、今バスタブで水を跳ね上げている女がルディに何と言ったのか、一字一句間違わずに当てることが出来ただろうし、それこそ声色や仕草まで真似て再現出来るはずだった。
 ルディは少し興奮気味に声を荒げて続けた。「『返さなくてもいい。そのかわりにあなたの身体で返してもらうわ』だ、ニヤッと厭らしく笑ってな。最初から僕を味見するつもりだったんだ。いやきっと僕だけじゃないだろう。今までも僕のような若い男を何人も食い散らかしていたんだろう。何て淫売だ? 僕には色情狂と寝る趣味だってないが、こんな女に金を返す必要があるとはどうしても思えない。それで腹が立った僕は迫って来たあの女にキスするかわりに腹を殴った。殴ったといっても、そんな強くじゃないが……そうしたらあの女、僕を訴えるだとか殺してやるだとかとんでもないことを喚き散らして──どうした、血の匂いに酔ったのか?」レイの顔は真っ青になっていた。何ともない、平気だと言う彼の肩を、ルディは優しく抱いた。「まあそんなわけで、僕は彼女に殺意を抱いたのさ。それだけのこと。しかし、ただ、こういうことは言える。僕が誰か──僕はあんたの共犯者だ」

「これからどうすんだ?」レイは聞いた。
「まずは、持ち運べる大きさに切る」
 あまりにもあっさりと発せられた残酷な科白に、レイは一瞬言葉を失った。
「切る? 死体を切るってことか?」
 困惑するレイに構うことなく、ルディはバスルームを出てすぐ脇にあるキッチンへと向かった。後を追うレイを無視し、戸棚から包丁を取り出して吟味する。
「切るって、そんな……」レイが話し掛けてもルディはまだ包丁を選ぶのに夢中だった。
「別に猟奇的な趣味で言ってるんじゃない。切ってから処分した方が都合がいいんだ──ああ、あった、いいなこの肉切り包丁。それに、どうせ死んでるんじゃないか」
 レイは明らかに動揺していた。みかねたルディは手にした包丁をひっくり返し、柄でレイの頬をぴたぴたと二回、軽く叩いた。
「言い方を変えよう。拳銃で一発ぶっぱなされて即死するのと、死んだ後で切り刻まれるのと。当人にとっちゃどっちが痛い? 苦しい? 答えはどっちも同じ、つまりどちらも皆無さ」
「だからって、それは……」
「何だ、怖じけづいたのか? 度胸を見せろ。思い出せ、さっきやったことを」
 ルディは、目の前でぶるついている男がそんな度胸をはなから持ち合わせていないことをわかっていてわざとけしかけた。レイは顔を横に振ってしばし躊躇ってから、静かに頷いた。
「わかってる、わかってるよルディ。やるよ。やらなきゃならないんだろ? わかってる……でも、あいつは……リズは俺の……俺の恋人だったんだぜ」
 レイには、ルディが次の言葉を待っているのかどうかわからなかった。だが彼が何も言わなかったので、俯いてぼそぼそと話を続けた。
「リズは、俺の彼女だったんだ。可愛い女だった。俺にはこいつだけだと思った。お、俺はリズが金貸しをしていることなんて知らなかったし、幸せだと思ってた。けどあいつ浮気が酷くて……俺の目を盗んで、男を引っぱり込んでやがったんだ。それも、一度や二度じゃない! だから、だから、お、俺、我慢出来なくて拳銃を隠し持って──
ごめんなさい、レイ。悪気はないのよ、貴方がいなくて寂しかったのよ。だって、夜一人で寝るのってとっても寂しいんだもの。わかるでしょうレイ、あたしがいない夜のことを考えればわかってくれるわよね? 本当よ、あたしが一番好きなのはレイだけよ。信じて。ね、愛してるわレイ……ほら来て──そこで俺は、引き金を引いた!)
 ファック! 畜生、何で俺はあんな事を! あんな売女のために、なんて事をやっちまったんだ!」
 レイは話ながら感極まり、凄まじい後悔に襲われた。下らない女に抱いた下らない嫉妬の代償はあまりにも大きすぎた。
「ルディ教えてくれ、俺は、俺は何であんなことを」
 ルディは包丁を脇に置き、泣きじゃくるレイの肩を抱いて赤子にするようにあやした。
「泣くなよ。簡単なことだ。あんたは女に騙されていた。あんたは彼女と付き合ってから昨日まで、幸せだったか?」
「え? あ、ああ……多分」
「本当か? 胸を張って宣言出来るか?」ルディは拳でレイの胸を小突き、語気を荒げた。「あいつはあんたに隠れて金貸しなんかをやっていた。そしてそいつらを片っ端から食ってった。あんたは何も知らずに、顔も名前も知らない男の精液で汚れきった×××に喜んでキスしていた。『愛してるよリズ』『ええ私もおんなじよ!』──客観的に考えろ。こいつはとんでもない間抜けな男だ。そしてこの世でもっとも哀れで不幸な男だ」
「うん、そうだ、その通りだよルディ」
 レイは改めて考えた。本当に俺は幸せだったのだろうか? つい昨日まで、彼女にさんざ振り回されてきた自分は、気付かなかっただけで実際は不幸で惨めな男だったのではないか。彼女の居なくなったこの瞬間から、俺ははじめて幸せを掴めるのではないだろうか?
「世界で一番哀れな男は、今夜自らの手で復讐を果たした。僕は彼を咎めないし、それどころか彼を祝福する」
「本当か?」レイは言った。「俺は本当に逃げられるのか? 逃げてもいいのか?」
「何の罪もない君が逃げるのを止める権利は、誰にもない。僕にもだ。僕の言う通りにすれば、君はきっと逃げられる」
「本当だな、本当に信じていいんだな?」
「ああ、俺を信じろよ」ルディは念を押すレイの頬に祝福のキスをし、その唇で呟いた。
「君は明日から幸せになれるさ」


 水が貯まるのを待つ間、リビングに残った血液を新聞紙とバスタオルで一滴残らず丁寧に拭き取った。タオルはあっという間に赤黒く染まり、ソファは何事もなく元の軽薄なピンク色に戻った。
「ソファが安物で良かったな。本革だったら今頃血液が乾いてちとまずいことになってたぜ」ソファを覗き込んでいたルディは側に転がっていた薬莢を拾い上げポケットにしまうと、顔を上げて笑った。無邪気な笑顔に緊張を解きほぐされたレイもつられて笑った。
「ああ、そうだな。ラッキーだったよ」
「いや、これはただの幸運なんかじゃない」
 途端にルディは微笑むのを止めた。
「きっと神様の思し召しさ。あの女は死ぬべきだった。そしてあんたは、捕まるべきじゃなかったのさ。考えてみろ、あんたは今日の決行を偶然に選んだと思ってる。だが今夜は新月だ。これは偶然か? このアパートの住民達はどんな奴等だ? もめ事には徹底的に無関心で、何よりサツが大嫌いだ。叩けばケツの穴からも埃が吹き出すような連中ばかりだからな。あの女がこのアパートに住んでいたのは偶然か? あんたがこの場所を選んだのも偶然か? ……そして何より」ルディは立ち上がって、うってかわって真剣な眼差しで真直ぐにレイを見つめた。
「ここで僕と出逢ったのは偶然か?」 
 その眼光と言葉のあまりの迫力に、レイは目の前にいるのが生きた人間かどうかさえわからなくなった。こいつは自分とは違う、他の何かではないのか。自分に素晴らしい力を与えてくれる、素晴らしい何か。
「運命だよ。そういうふうに生まれたんだ」
「……本当か?」
「あぁ。僕は──ルディ・アスティンは真実しか話さない」
 ルディの言葉を聞いていると、それがほんものの真実のように思えてきた。不思議なことだったがほんとうにその通りだ、とレイには思えたのだ。俺はこの女を殺すために生まれ、けして捕まるようにはなっていない──神は真実しか話さない。
 ルディはタオルを湯舟に放り捨てて、再びにこやかに笑った。溢れる寸前のバスタブの中で死体は海藻のように歪んでいた。


<3>

「まだ時間にも余裕があるな……」
 ルディは夜半にさしかかった壁時計を見て言った。
「僕はちょっとこれからの手筈を確認しに外に出る。君に見せたいんだが、一緒に来ないか? もちろん一人で待っていてくれてもいい」レイは断れるはずはなかったし、死体の前で一人になるのは不安だった。何しろリズは水を張ったバスの中で笑っていたから。
 ルディが連れ出したのは、殺人現場のアパートから数ブロック離れた、郊外の地区だった。庭の手入れがされていない家が多いのかそこら中で雑草が栄華を誇っている。閑静と言うよりも、寂れた古い住宅街といったところだ。家々の灯りはすでに消え、街灯も少なく、辺りは極めて静かだった。
 ルディが草木の間に身を屈めると、レイもそれに従った。
「あれだ、見ろ」ルディに言われて目を凝らした先には、比較的小綺麗で、こじんまりとした一軒屋があった。
「この辺は老人ばかりが住んでいる地区なんだが、あの家にはジュディっていう婆さんが一人で住んでる」
「それがどうしたんだ?」レイが口を挟むのを、ルディは人さし指を口元に当てて冗談っぽく制止した。
「肝心なのは庭にある焼却炉だ」ルディが耳元に近付いて囁くので、レイはくすぐったさに小さく笑い声を立てた。「そしてもっと肝心なのが、婆さんが少しボケてるってことだよ。それで、何の思い入れがあるのか知らないが、庭の焼却炉に常に火が入っていないと癇癪を起こすんだ。それはもう酷いヒステリーをね。僕が思うに、あの婆さんは過去に焼却炉で何かヤバいものを燃やしたんじゃないかな……まぁ、それは今はいい。そんなだから、あの焼却炉が四六時中煙を吐いていても、家が薫製みたく臭っても、近所も警察も何も言わないし何も一つ疑わないんだよ。可哀想なボケ老人だと思って」
 レイはじっとジュディ婆さんの焼却炉を睨んだ。胸が高鳴っていた。そして話の切れ目で、ルディを振り返った。鼻と鼻がぶつかりそうなくらい近くにルディの顔があった。お互いの息が頬に掛かっていた。
「俺にも何となくわかってきたよ」今度はレイがルディの耳に口をつける。「あそこでし……アレを燃やしちまおうって寸法だな」
「ビンゴ、その通り。死体をバラしてから、証拠と一緒にこっそりあの焼却炉に捨ててしまうんだ。三日三晩も燃やせば、粉々になっちまう。なに、ジュディ婆さんにバレたところでボケてるんだ、どうとでもごまかせる。つまりだよ、あの焼却炉で灰になるまで焼いちまえば、身元もわからなくなる。後は灰を海にでも流せば、万事上手くいくわけさ」
 ルディは囁きながら立ち上がったので、最後の部分はレイの耳には微かにしか聞こえなかった。彼は屈んだまま、不安な表情でルディと焼却炉を交互に見上げた。「でもそんなに上手くいくかな?」
「大丈夫さ。さっきも言ったがここらの連中はボンクラ揃いだ。実際僕もこの炉で三十二人──いや、何でもない。上手くいくさ」
「え、何だって?」
 ルディは答えなかった。ルディと自分の間には少し距離があったし、お互い囁き声だったので、微かにしか聞き取れなかったのだ、と、レイは思った。そして例え微かでも、お互いちゃんと聞こえていたことも知っていた。

 ルディはちょっと待ってろとだけ言うと、どこかへ消えた。そしてすぐに戻って来た。
「何しに行ったんだ?」
「ああ、ちゃんと火が入っているか見て来た。さあ、帰ってさっさと片付けちまおう」
 アパートに戻った二人は家中の刃物と医療用ゴム手袋、鼻を塞ぐためのテープ、それとありったけの新聞紙を用意し、下着を残して着ていた服を脱いだ。髪の長いレイは、輪ゴムで髪を束ねた。レイの指にささくれを発見したルディは、彼に手袋をするよう勧めた。
「なんでこんなものがあるんだ?」レイははめにくいゴム手袋を難儀して付けながら訊いた。
「男がか女がかは知らないが使ってたんだろ、アレの時に……よし、じゃあ僕は上半身をやるから、えーと……」
「レイでいい」
「レイ、あんたは下半身だ。トランクに入る程度の大きさにするだけだ、そんなに細切れにするわけじゃない。切り方はどうでもいい、太い骨は折れ、肉片は可能な限り拾え。オーケー?」
「ああ、わかった」レイは窮屈な手袋を肘までたくしあげ、肉切り包丁を握った。握りしめた手が全く震えていないことに気がついて、思わず笑ってしまった。
 浴槽の水は底が見えないほど真っ赤に濁っていたので、ルディは水中に腕を突っ込んで、手探りでリズの髪の毛を探した。
 しばらく二人で世間話をしながら解体作業を進めた。特に下半身の解体は驚くべきスピードで、いともスムーズに進んだ。
「レイ、あんたこの辺の者じゃないだろ」ルディがレイに訊ねた。
「ああ、そうだ。こいつ(と言ってレイは死体の太腿を見た)に会いによく来てはいたが……何故わかる?」
「この町は閉鎖的だ。ここのような流れ者が集まるアパート街を除けば、町中の奴等がお互いを知っているといってもいい程だからな。それに……ここらの人間は偽善的で、熱狂的に神の正義を信じるくせに、目に見えるものしか信じようとしない。そして自分を疑わない。そのくせ胸の中ではいつも誰かに毒づいている。そんな連中ばかりが集まってひっそり腐っていくような、典型的な田舎だ。あんたは違う。あんたはとびきりのいい奴だ、それに顔もいい」ルディはウィンクを寄越した。
「ああ、お前もだルディ。感謝してるよ。あんたは本当にいい奴だ」二人は顔を見合わせて笑った。「いい奴だが、相当なクレイジーだ」
「おいおい酷いな、『いい奴』に向かって。僕に言わせれば、みんな自虐的に我慢強いだけさ」そう言うルディを、レイは横目で見ながら皮肉混じりに笑った。
「やっぱりクレイジーだ」
「僕がクレイジーなら、レイ、お前もさ。──もう片足切ったのか」
 二人は刃元が骨に当たる音と、アパートのどこからか漏れ続けるベース音に合わせて即興の唄をうたった。


 町外れの小さなアパートは、四○五号室の玄関に大きめのトランクが置かれている以外にはいつもと何一つ変わりがなかった。トランクの中には血で汚れた女の衣類や凶器、それとすっかり小さくなった彼女自身が、パーツごとに新聞紙にくるまれて詰め込まれていた。その作業のほとんどは、先に担当部位を解体し終えたレイが請け負った。
「じゃあ、僕は先にいく」指紋を拭き取る作業を終えたところでルディが言った(もっとも彼には拭き取るべき指紋はほとんど残していなかった)。
「どうして? 一緒に行くんじゃないのか?」
「考えてもみろ。婆さんは大概早起きだ。いくらボケ老人でも、死体を焼いている最中にギャーギャー騒がれては困るからな。先に行って様子を見て来る。三十分程したら、あの家へ向かってくれ。さっきの草むらで落ち合おう。まあ、もし起きていたら……その時はなるべく早めに戻ってくるよ」一人になるのは不安だったが、引き止める理由の見つからなかったレイは仕方なく承諾した。
 ルディは玄関にしゃがみ込み、作業中脱いでいたブーツを履き直しながら言った。
「見落としがないかもう一度確認しとけよ。ああそうだ、足跡も綺麗に拭いた方がいいんじゃないかな」
「それもそうだな。わかった。じゃあ、三十分後に」力なく手を振るレイを、ルディはにっこり笑って振り返った。
「そんな顔をするな。全て上手くいく。すべて、君の望む通りにな。僕を信じろ……」
「ああ、ありがとう」レイはもう一度手を振って握手を求めたが、ルディは既に玄関を出てアパートの階段を小走りに降りていくところだった。
 すっかり部屋を片付けると、レイはトランクの上に腰掛けて煙草に火をつけた。部屋には何一つ証拠は残っていなかった。リズとの想い出も、リズが若い男を次々に引っ張り込んでは手込めにしていた様子も、何度も消毒した手の汚れと一緒に一つ残らず消えてしまっていた。レイはほっと肩を下ろし、自分の尻に敷かれたトランクを眺めた。
「…………リズ、お前が悪いんだぜ」


 三十分は意外に長かったが、ほんの数時間前の焦燥は嘘のように消えていた。まるで夢でも見ていたかのようだ。ひょっとすると、全て夢だったで片付くのかもしれない。そんなことを考えながら表に出たレイに、一つ計算外の問題が発生した。
 人間一人詰め込んだトランクが重すぎた。まだ夜明け前の路地には人が来るような気配はなかったが、かえってこの静けさの中ではトランクを引きずる音が目立ち過ぎる。やっぱり無理にでも引き止めるか、一緒に行くべきだったのだ……。
 お人良しのレイはこんな夜更けに声を掛けられるなんて思いもしなかったし、死人を入れたトランクがこれ程重いとも知らなかった。
「そこで何をしてる?」
 一気に血の気が引いた。一瞬自分の耳を疑い、それからやっと動悸が早くなり、たっぷり一秒後にどっと嫌な汗が吹き出した。レイに声を掛けた男は、後方からもう一度同じことを訊ねた。「そこで何をしているんだ?」
 レイが首から上だけでおそるおそる振り返ると、そこには若い男が立っていた。レイの目は保安官のバッジに釘付けになった。
 保安官補になったばかりのブラッド・ジョンストンは正義感に燃えていた。深夜の人気のないスラムで、不似合いなトランクを引きずる男。犯罪の匂いだ。ブラッドの直感はレイの顔を見た瞬間、確信に変わった。
「三度目だ。そこで何を……いや、何をしようとしていた?」
「あの、りょ、旅行っていうか……ただの、旅行者なんです。な、なかなかホテルが見つからなくて」
 取り繕うと思えば思う程しどろもどろになり、気を抜けば足が震えそうだった。その様子を不信に思ったブラッドは、さらにレイに詰め寄った。ドラッグか何かの売人だろうと思っていた。
「荷物をあらためさせてもらう」
「頼む、待ってよ、困るんだ」レイは慌ててトランクを自分の後ろに隠した。その時角が地面にぶつかって、ガツッと物凄い音──レイの鼓膜をぶち破るような音を立てた。レイは飛び跳ねた。
「きっ、汚いし、見られたくないもの……その、恥ずかしいものとかが入ってるんだよ。わかるだろ?」
「気にすることはない。法に触れていなければ、俺は人の趣味にあれこれ言うような不粋な男じゃない。その後でゆっくりホテルを案内しよう。この辺にゃ立派な宿はないがね」ブラッドの左手がレイの持つトランクに伸びた。右手は尻の拳銃にかけられた。
「いえ、本当に、あの……」レイの足はとうとう理性の管轄を離れ、ブルブルと震えた。ブラッドは拳銃に手をかけたまま、レイを振り切ってトランクを奪い──
「うわっ!」
 レイは掛け金を外そうと前屈みになったブラッドの後頭部を、力任せに殴った。
 トランクを奪い返し、全力疾走する。行くあても逃げ切れる自信もないままに、闇に向かって走った。自分でも信じられないくらい早く足は地面を蹴り、トランクは信じられない程軽かった。そして信じたくはないが、ブラッドはふらつきながらも自分を追って来ていた。
「止まれ! 撃つぞ!」
 言うが早いか、ブラッドは威嚇発砲をした。放たれた弾は地面に当たって火花を飛ばしたが、そんなものはレイにはまるで見えていなかった。彼の目からは止めどなく涙が溢れ、何も見ることが出来なかった。
 二発目は正確にレイの左足を捉えた。熱いと思った瞬間、体はアスファルトに倒れ込んでいた。手から離れたトランクは、二、三回回転して、バチンという音とともに真っ二つに開かれた。
「痛い、痛い、助けてルディ!」
 遅れて追いついたブラッドは、辺りに散乱した『旅行の荷物』を見て顔面蒼白になった。


<4>

 殺人、死体損壊、遺棄の容疑者レイモンド・ブラウンの顔色は、前日にもまして酷いものだった。昨日から一睡もしていないし、飯も喉を通らない。
 レイは後ろ手で掛けられた手錠とパイプ椅子を紐で繋がれ、紐の尖端には胸を張ったブラッドが立っていた。今度こそどこにも逃げられなかったし、そもそも最初から逃げられるはずがないと諦めかけたはずだったのだ。それでもレイにとって、今のこの状態はあまりにも悲惨で惨めだった。それに、撃たれた左足が痛んで仕方なかった。
「だから、何度も言ってる。確かに俺はあいつを……リズを拳銃で撃った。それは認めるよ。けど、まさかあんな酷いことをするつもりはなかったんだ。すぐに自首しようと思ってた。けれど、ルディに……ルディが俺をそそのかして、死体を切って焼いてしまおうって言ったんだ」
 レイは夕べから何度も同じ話をさせられて、うんざりしていた。何が幸せだ。何が俺を信じろ、だ。計画は最初から穴だらけでこうなることはわかりきっていたのに、どうして昨日はあれ程迷いのない気持ちになれたのだろう……第一あいつは俺を裏切って、どこへ消えてしまったんだ──話す度に、自分が生け贄の子羊のように哀れに思えて仕方がなかった。
「ルディは言っていた、俺は確かに聞いたんだ。あの焼却炉で今まで三十二人を殺して焼いた、って」
「だから何度も言ってるだろう。お前の言う通り今朝その焼却炉を調べたが、何の変哲もない焼却炉だった。人の骨どころか、ゴミを焼いた以外何の痕跡も出なかったそうだ」
 取り調べにあたった保安官は、一向に進まないやりとりにうんざりしていた。容疑者には動機も証拠も凶器まで揃っていた上、下手な隠蔽工作の後も確認された。焼き捨てるはずだった手袋にはべったりとこいつの指紋がついていたし、足跡一つないアパートがあるもんか。残るは弾丸と薬莢の行方だが、それがなくとも充分有罪に出来る要素にあふれている。もうこれ以上追求することなど何もないのに、何でこいつは食い下がるんだろう……静かで退屈な田舎町で突如起こった猟奇殺人事件に、うんざりしきっていた。
 一方で保安官補のブラッドは、自分の手柄をさらに実のあるものにしようとやる気をみなぎらせていた。
「おい、お前は昨日からルディルディ言ってばかりいるが、第一そのルディって男は誰なんだ? まさか、まったく知らない男に言われてその通りにしたってわけじゃないだろう?」
 ブラッドに言われ、哀れなレイは言葉につまりぐっと俯いたが、急に閃いて顔を上げた。
「アスティン……そうだ、思い出した! 奴は確かにルディ・アスティンと言っていた! 地元なんだろ? そいつをまずここに捕まえて来てくれ! 話はそれからだ!」
 保安官達はその名を聞いて顔を見合わせ、一様に怪訝そうな顔をした。
「何がおかしいんだ……?」レイはとうとう繋がれた椅子ごと立ち上がろうとして、後ろに控えていたブラッドに取り押さえられた。保安官は含み笑いをして立ち上がると、書棚から一冊のファイルを取り出し、パラパラと捲ったページをレイの目の前に突き出した。
「お前の言っているルディ・アスティンとは、この男のことか?」
「ああ……そうだ、こいつだ! ちょっと写真とは見た感じが違うが……確かにこいつだよ。ルディだよ」
 書類に貼られた写真には、にっこりと微笑んだ顔をさらに崩したような、不気味な笑顔のルディが映っていた。
「おまえがルディのことをどこで知ったかはしらんが、俺達はよく知っているんだ」
「じゃあ早くしょっぴいてきてくれよ!」
「続きを聞けよ。あのなあ、こいつはこの辺りじゃ有名な白痴者なんだよ。まともな会話すら出来やしない。知能テストの結果では……何だったかな、ブラッド?」
「五才児程度、と記されていますね。僕は彼と同じ地区の生まれで小さい頃から奴を知ってますが、確かに奴はバカだった。けれど僕は彼を邪見にしたことなんて、一度もありませんよ」書類を覗き込んだブラッドが誇らし気に言った。
「そうだ、その程度のオツムだ。確かにルディには善悪の判断が曖昧なところがあって、小さな悪さ……飴を盗んだり子どもを泣かせたりのことでここの厄介になったことはあった。だがなブラウン、人を殺して、さらに死体隠蔽を企てるなんてまねごとは、天地がひっくり返っても出来ない!」保安官は睨みをきかせ、ついでに机をバンと一つ叩いた。
「う、そだろ……違う! 俺の会ったのはこのルディじゃないんだ、ふ、双児の兄とか……そうだ、頭が、な、治ったんだよ突然、そうだよきっと!」レイが興奮してまくしたてたので、彼はブラッドの手によって椅子もろとも床に押さえ付けられる羽目になった。ブーツの底で傷口を踏まれ、思わず叫んだ。「ああ、畜生! 離せ! とにかくルディを、ルディを連れてこい!」
「残念だがそれは無理だ。天地が三度ひっくり返ってもな」
「どういうことだ?!」
「ルディは三年前に死んでるんだ。正確には海で溺れて行方不明だが。そうだったな、ブラッド?」
「ええ、確かにそう書いてありますね」ブラッドはレイを押さえ付けたまま、片手でファイルの表紙を見せた。そこには死亡者リスト、と書かれていた。
「嘘だ……みんな騙されてるんだ…………全部仕組まれたことなんだ…………俺は幸せになれるって、言ったじゃないか、ルディ……?」
 レイは椅子ごと仰向けになり、天井を見上げる格好になった。白々しい蛍光灯が見えた。窓の外の青空に鳥が浮かんでいた。自慢だった形の良い鼻の頭が見えた。そして全てが涙の中に歪んだ。
 彼は奈落の底から、見えない眼で天を見上げた。
 そこにあったのは、ルディに対しての怒りと憤り、それだけだ。その時唐突に自分の感情に気がついた。
 なんということか、罪悪感がない。一生消えることがないと思っていた「人を殺した」というレッテルが、実感が、いつの間にか、それこそ最初から存在しなかったかのように消え去っていたのだ。
(そうか……そうかルディ、お前の言っていたことはこういうことだったのか。わかったよ)
 レイは泣きながら笑って、静かに瞼を閉じた。そこには怒りすら消え、とうとう何一つなくなってしまった空の世界があるだけだ。

「さて、君にはさらにもう一つの容疑がかけられている」
 もはや何の反応も示さないレイに、保安官はため息をつき、うんざりしきった顔でなげやりにつぶやいた。
「ミズ・ジュディ・アスティンの失踪についてだ。バラバラ殺人に比べれば、取るに足りない事件だが……」

『ナルコン』2003-04-25

※お、一年半ぶりの更新だ。お笑い。滑稽話。一言で言うなれば劣化町田康。

 高校卒業後、俺は働かないわけで、親が小金持ちなこともあって、毎日するべき事もなくだらしなく暮らしている。やはり人間は日々あくせく忙しく生きていないと余計なことばかり考えて堕落に陥るというのは本当で、それは己のこの五年間で立証済みだ。
 我ながら、何よりまいった、人と会うのが面倒くさい。いや、違うな、別に友人に会う事それ自体は嫌いではないのだ。会ってしまえばそれはそれ、カフェに行くも酒を交わすもたまには踊りにいくもよし。待ち合わせの時間に間に合うように起きて、顔を洗い、着替え、歯を磨いて靴を履くのが億劫なんである。この「着替え」というのが一番のネックで、着替えるためにはまず服を選ばねばならぬわけであり、その日会う友人、行く場所などTPOSにあわせたコーディネートを考え、さらに極めてさりげなく流行を取り入れなくてはならないため、小一時間はクローゼットと鏡の前を往復するはめになるのである。そしてまた、馬鹿騒ぎののち遅くに家に戻り、風呂を沸かし風呂へ入ることがまた辛い、俺は毎日風呂へ入らないでは気持が悪い性分なので。こんな面倒なことはないので、結局、友人からの誘いの電話やメールが来る度に、そのもろもろの動作を思って陰鬱になり、ついには居留守を使ったり、問いつめられればシラッと「え、そんなメール届いてないよ」などと嘘をつき、次の約束をうやむやにするのが習慣になってしまった。
 ああまずい、友人は大切にせにゃならんと思っていたのは最初のうちだけ、今では、これ幸いと自ら連絡を入れるようなことは皆無になりしたがって友人はめっきり減った。この事態にあまり困っていないことに俺は困った。俺は非情な人間なのかと疑った時期もあったが、それは違うように思う。すべては人恋しさと億劫さを天秤にかけた結果、億劫さが勝っただけのことであり、つまるところだらしないだけなのだ。人は他人なしに生きてはいけぬと言うが、それはもちろん俺も同意のところであるが、他人はすぐ傍にいなくともいいのだよ。

 カーテンの隙間が赤く滲む頃、吉井から電話。まだベッドの中にいた俺がようようのことで電話口に出ると、これからそちらへ行くと言う。この、吉井というのは高校の同級生で、卒業後俺もそうだけど定職につかずにバイトを点々とし、俺が金には困らぬ生活なのにつけこんで、しょっちゅうただ飯を頂戴しにくる。かわりに、返答の面倒臭い好奇心、俺を知る人の決まり文句であるところの「今何してるの」「そろそろ働かないの」「優雅な生活ですこと」だのを言わないので、心安くつきあっていられる、何より、家まで来てくれるのだ。面倒がなくて良い。だらしない生活になってからも付き合いのある数少ない人間の一人である。
 一時間後、綿シャツとジーンズ姿で玄関先に訪れた吉井を、起きたままのスウェットで出迎えた。
「よう」
「よう、何だまた金ないのか?」
「うん、先月パチンコ屋クビになった」
 吉井はへらへらと笑いながら、部屋にあがってさっそく煙草をふかした。どうせまた遅刻常習かなにかだろうとクビの理由は深くは聞かずに、俺も差し向いに座って煙草に火をつける。とりあえず酒、男二人が一室にこもればとにかく酒、するめをつまみに焼酎をコップについで呑んだ。のむにつれ酔い、酔うにつれくだらぬ議論は盛り上がる。
「なあ、あんたんちっていつ来ても部屋が綺麗じゃん。来る前に片付けてんの?」
「いや、いつもこんな感じ」
「へえ、几帳面なんだな」
 手狭なワンルームには、ベッド、テーブル、テレビ、机、ベッドと反対側の壁にクローゼットがあるのでタンスの類いは置いていない。物がないから綺麗に見えるだけで本質はだらしないというのが俺の意見で、吉井の唱える根が几帳面説とは真っ向から対立した。
「俺は几帳面じゃねえ、物があったら片付けにゃならねえだろ、それが面倒だから物を置かないのだ。片付けが嫌いなのはだらしないからだろう」
「だらしないってのはさあ、あんた俺んち来たことあったっけ?」
「ないけど」
「すごいよ。もうごちゃごちゃ。足の踏み場がないよ」
「ほう」
「枕元をゴキブリが走ってったこともある」
「うげ」
「その辺に落ちていて、今、口を拭いたちり紙が、一昨日鼻かんだちり紙なのか、一ヶ月前オナニー処理したちり紙なのかもわかんねえし」
「うぎゃ」
「な、だらしない奴は、片付けようって概念がないんだよ。面倒とすら思わないよ」
「いや、それはお前が汚物愛好者なのだ」
「なんだそれ」
「知らんわ」
 俺のがだらしないいや俺だ、ってしばらく第一回真のだらしなさとは何か討論を繰り広げ不毛な戦いを交わした結果、いい加減腹が減ったなってんで、近所のファミリーレストラン『ギャスト』へ行くことにした。
「ちょっと待て、着替えるから」
 よっこらしょと立ち上がってクローゼットを開けると、吉井は一緒に立ち上がり無地のシャツやらセーターやらズボンが並ぶクローゼットを覗き込んだ。
「そんなもの、そのまま出かけりゃいいじゃない」
「ばかっ、スウェット何かで外を歩けるか」
 しかもお前が小綺麗な格好なのになおさらだ、と言いかけたのを吉井が遮って「前々から思っていたけど、あんた、ナルシストだな」などとほざいた。
「さっきは几帳面で、今度はナルシストか」
「ごめん、さっきのは訂正。ナルシストだよ」
「どこがだよ、まだ几帳面のがいいじゃねえか。ナルシストってのは、あれだろ」と言って俺が鏡の前で両頬に手の平を添えしなを作りうっとりとすると、吉井はげらげら笑った。
「ほれ、気色悪いじゃねえか。俺はこんなことしてねえぞ。それにだ、第一おめぇ、この面はナルシストって面じゃねえだろが」
「あ、その辺は自覚あるんだ」
 確かに俺は一目見たら忘れぬような不細工ではないものの、女にもてるような顔でもない、ああ認めよう。二重の大きな目もマッチ棒が乗るような睫毛もすっと伸びた鼻梁も凛々しい頬もない。つやつやとした巻き毛もない。金と時間はあるというのに、この五年間まったく浮いた話の一つもないのが何よりの証拠だ。もっと簡単な方法もある。鏡を見ればいい。
「へっ、悪うございましたね。ナルシスト何かにするな、ボケ」
「だってさあ、あんた、お洒落な格好の自分じゃないと出歩けないんだろ?」
 吉井が思いがけぬことを言うのと、気まぐれにハンガーをジャラジャラ鳴らすので、俺はいささかムッとした。
「お洒落にこだわってるわけじゃねえんだよ、流行だからってブランドもの悪趣味なデザイン、ありゃ駄目だ。阿呆らしい。俺のはだな、ええとつまり」自分に合った格好、と言いかけてハッとして、「変なカッコじゃなきゃいいんだよ」と付け足した。
「そこらへんがナル入ってるって言ってんの」
「どこらへんがナルシストだよ、反対にコンプレックスの塊ってんなら、まあ、俺もちょっとそうだなっと思うけど」
「じゃあ、コンプレックスの塊でもあり、ナルシストでもあるんだよ」
「なんだそりゃ、矛盾してるじゃねえか」
「しないよ、現にあんたがそうじゃん」って埒があかないので、辞書を引いた。ナルシスト、自己陶酔型の人、うぬぼれや。コンプレックス(或は劣等コンプレックス)、劣等感、心のしこり、観念複合体。「ふむ」吉井はわざとらしく鼻を鳴らした。
「で、結局俺はどっちなんだ」
「だから、どっちもじゃない?」
「己のコンプレックスにナルシシズムを感じるということか?」
「うーん難しいことはわかんねえや」
「じゃあ俺は、ナルシストでありコンプレックスの塊なのか」
「ナルコンだな」
「ナルコン?」
「ナルコン」
「ナルコン!」
 ナルコンの響きが思いのほか良いので、二人でしばらくナルコンナルコン言い合いながら、国語辞典を放っては受け取り、受け取っては放るキャッチディクショナリーをして、阿呆のように笑いあった。実際、俺達二人はたった今、酔っぱらっていることを差し引いて充分阿呆なんだと思う。
「やい、ナルコン」
「うるせー、ナルコっ!」
「おナルコ」
「げらげらげら」
 爆笑で顎を引きつらせたまま吉井は「ねえねえ、履歴書ないの」と言った。「ああ、あるよ」俺が机の奥からしなびた履歴書を取り出すと、吉井はボールペンで『自覚している性格』の欄に堂々たる字でナルコンと綴り、「なあ、あんたファミレスで働けよ」「お前も働けよ」「ああいいよ、でも俺、くくくく、ナルコンじゃねえぜ」「何言ってんだ、お前だってナルコンあははは、ナルコンくくっ、人類皆ナルコン」「我々人類はぁ、皆、ナルコンなのであります!」「くははははは」となおもしつこく笑いつつ、我々人類は履歴書を手に勢いにまかせギャストへ向かうのだった。ダークグレーのスーツを着込んで。

『大真理オーガ教』2001-09-01

※僕は辟易とした満員電車の中で、不思議な美女と出逢った。平々凡々と流れる時間の中の非日常の吸引力。家庭内で起こるカルト宗教。いちおう、怪奇ホラーものです。未熟だけれど、テーマは結構好きかな。

 上の住人が気になる。

 僕は元来かなり神経質な質であるので、例えば就寝中に、家具が軋んでたてる「ミシッ」という音にすら、目が醒めてしまうほどなのだが、ここ数週間それが酷くて困る。
 というのも、この賃貸マンションに越してからそれまでの一年間、僕の上の部屋(僕は405号室なので、505号室になる)はずっと借り手がおらず、空き部屋になっていた。だから上の騒音には全く悩まされなかったわけだが、数週間前、正確には三週間と三日前になるが、505号室に住人が越してきてからというもの、騒音について悩みが耐えない。
 日中は僕は仕事に出ているから、もちろん気にならないのだが、不思議なのは夜中だ。決まって、深夜十二時になると、寝室の天井から、こんな時間に大工仕事かと思われるほど規則正しい音で、ドンドンドンドン響いてくる。丁度寝ようと床につく時間帯なので、近頃では不眠症に近い状態になってしまった。
 いったい、上の奴等は何をしているのだ? こんな夜中に。しかも、決まって同時刻に。

 ああ、今夜も眠れない。




 それからさらに一週間がたった。深夜十二時の騒音は、相変わらず続いている。
 僕は不眠のため、相当ストレスがたまりカリカリした状態であった。ふと脳裏に、幼い頃テレビニュースで見た、マンションのピアノ騒音に悩みついには凶器で階下の住人を惨殺した、殺人事件のことがよぎった。
「まさか、僕はそんなこと……」
 ヘヘヘと笑って、背筋に冷たいものが走ったのをごまかす。
 こんな不安定な精神状態でも、それでも朝になれば仕事に向かわねばならないのは、サラリーマンの辛いところだ。
 僕の場合、若くに結婚したものの、数年後離婚して子どももいない。それから三十八歳になる現在まで、悠々自適な独身生活を送っているわけで、守るべき家族というものがないのである。なのに何故、こう毎日会社に通い、上司に頭を下げ、取引先に頭を下げ、部下の尻拭いをしているのだろうか? 自分一人ならば、適当なアルバイトでもすれば充分やっていけるはずだった。元々無趣味で金の使い方を知らない僕は、かなりの蓄えもあるから、当分は無職でいても構わない。
 僕の本棚には、『月刊・自然と過ごす脱サラ生活』なんぞが並んでおり、アウトドアスタイルの日に灼けた同世代達に、ページをめくる度、僕は羨望するのだった。ようするに、自然でなくともいいのだ。今とは違う生活に憧れていたのだ。
 だが──結局、僕は会社から逃れられないでいる。ちっぽけな自尊心は、僕を「善良なる、いち社会人」から外れることを許さなかったのである。よって、今日も僕は、ぎゅうぎゅう詰めの電気の箱に乗って、会社へ、会社へ、会社へ……

 満員電車は、僕の思考をぶつりと停止させる。前後左右から押しつけるように固定され、自分の意志と関係なく立ち続ける様は、まるで雁字搦めに縛り上げられた人形だ。もしくは、ドナドナだ──ぎゅう詰めの荷馬車で売られて行く、悲しみを叫ぶはずの喉を理性で潰された子牛。こんな時、僕の脳味噌は、考えるということをやめてしまう。何も考えるな、何も思うな、何も感じるな。そうすれば、目的の新橋駅までアッと言う間に到着するんだから──それが、僕が十五年間の電車通勤で身に付けた、最善の選択だった。
 しかしその日は違った。単なる偶然か、それとも奇跡が起こったのか。
 奇妙な美女を見つけた。はっと息を飲むほど美しく、微笑を携えた口元は艶やかで、見ているだけで体が火照るような色気のあるその美女は、いつもの車両のほぼ変わらぬメンバーのその中に、じっと黙って佇んでいた。身じろぐ隙間もないほどの混み合った車内で、美女のまわりの空間だけは、何故か彼女を中心にして、円を描くように清浄に保たれている。その理由は、すぐにわかった。彼女は、細く一点の汚れもないその両手に、二匹の蛙を持っていたのであった。
 まあ何と、「奇妙」の形容詞の似合う風景か。満員電車に、生きた蛙を握った美女が佇んでいるのである! 最初、あまりの不可思議で非日常な光景に、とうとう頭がおかしくなったかと思ったが、どうもそうではないらしい。彼女を取り囲む乗客の驚きの眼差しは、時折ピクピクと腹を膨らませる蛙に釘付けになっており、その体は必死で彼女から(と言うよりは蛙から)離れようと、無理な体勢で踏ん張っていたからだ。ああ、あすこのOLなんて、今にも泣きそうになっている。ここで急ブレーキでも掛かれば、美女と誰かの間で、蛙はぺしゃんこになるだろう。おそらく、グエッと断末魔の悲鳴をあげて。僕は、いつだったか雨の日に、車に轢かれて半死半生になった雨蛙を見たことを思い出した。体の半分をタイヤに引っかけた不運な蛙は、大きなお腹の皮膚が裂け、薄い膜に覆われた内臓を露出させながら、それでもゲーコゲーコと泣いていた。丁度、あんな具合になるだろう。
 僕は思わず、その悲惨な光景を頭に描いた。蛙の臓腑を白いワンピースにべっちょりとくっつけた、美女。今にも卒倒しそうな、不運な一人の乗客。僕は脳裏に浮かんだ圧倒的なインパクトに、薄気味悪い笑いを浮かべたくなるのを堪えながら、新橋につくまでの数十分の間、周りの人々と同じようにその美女と、蛙とを、凝視し続けていた。




 そのセンセーショナルな出来事を、散々同僚の聞きたがりの耳にぶちまけて、いつもより一日が早く過ぎ去ったような心情で、僕は帰路についた。ここ一ヶ月ずっと気になっていた階上の騒音の事が、すっかり頭から消え去っていたのは、あの美女のおかげかもしれない。
「変な人だったよなあ。多分、頭がおかしいのだろうけど。それにしても、蛙とは大胆な手だ。あれなら満員電車も、がら空きの車両と変わらず乗れるぞ」
 そんなことを呟きながら、調布にある自宅マンションのエレベーターを待っていると、またも僕の目をまん丸にさせる、今日二度目の衝撃が訪れた。
 あの蛙の美女! 彼女の姿が、閉じられたエレベーターのガラスに浮かんだのである。つまり、僕の後ろにいつのまにか、例の美女が立っていたのである。
「ひゃっ!」
 僕は思わず小声で悲鳴をあげた。彼女は悲鳴のかわりに、美しい小鳥のさえずりで「こんばんわ」と囁いた。
「あ、こ、こんばんわ」
 僕は間抜けにも、随分とうわずった挨拶を交わし、美女と二人でエレベーターに乗り込んだ。僕が四階のボタンを押すと、その後に彼女はすぐ上の五階を押した。その白い指にはもう、逆さ吊りの蛙は握られてはいなかったが、彼女の顔、服装、漂う色香は、紛れもなく今朝の蛙の美女その人だった。
 ああ、話しかけたい。だが何と聞けばいい? 「もしかして、蛙の人ですか?」では頓狂すぎる。万が一人違いだったら、僕がまるでお馬鹿さんだ。「今朝、同じ電車でしたよね」それじゃナンパか──僕がうずうずしていると、アッと言う間にエレベーターは四階に到着し、しばし密室だった四角い箱は、その重たいドアを開けてしまった。少々残念に、それでいて何となくホッとしつつ、エレベーターを降りようとしたその時、
「今朝もお会いしましたわよね」
彼女はその口から、ビーナスの響きを漏らしたのであった。
「あ、ああ、やはり貴女でしたか──今朝の蛙の!」
 思わず答えてしまってから、その失礼な返答に我ながらびっくりしていると、ビーナスはにっこりと微笑んで、
「ええ、蛙の」
と、小さな顔をくっと傾けた。その何と美しいことか。美術の教科書のビーナス誕生、あれはこの人だったのか──そう錯覚させる程の眩さで、彼女の神秘的な美貌は僕を貫いた。
「私、405の笹塚と申します」
 キラキラの花吹雪の舞う脳味噌が、僕に唐突に自己紹介をさせた。きっと、僕のよく反応する耳は、まるでトマトのように真っ赤になっていたことだろう。それを知ってか知らずか、美女ははたと気がついた風にこう言った。
「あら、それでは私の階下の方ですのね。私、先日505号室に越してきた、王賀[おうが]と申しますの。まあ……私ったら、引っ越しのご挨拶もせずに……申し訳ないわ」
「いや、そんな、気にしないで下さい」
 神秘的で非日常のビーナスは、意外にも常識的なことを言った。それが、僕に今朝の蛙事件のことも、十二時の騒音のことも、すっかり忘れさせるほど、心臓が体ごと持ち上がる勢いでほーっと浮かれさせた。
「あの、もしお夕飯がまだでしたら、私のところでご一緒いたしません? 遅れたご挨拶代わりになるかしら」
「そんな、突然ご迷惑でしょう」
 僕はなるべく平静を装ったつもりで、相当舞い上がっていたのか、顔の前で手のひらをブンブンと振り回した。
「いえいえ、私達も越してきたばかりでご近所にお友達もおりませんし──こちらこそご迷惑でなければ、是非ご馳走させて下さい。それに、こんなところで立ち話もなんでございましょ」
 というわけで、僕はこの王賀と名乗る不思議な美女宅で、不思議な巡り合わせのもと、夕食をご馳走になることとなったのだった。
 それは単なる偶然か、奇跡か、はたまた日常の草むらに突如現れた、非日常という名の罠か──。




「おかえり──と、そちらは?」
 そう言って僕達を向かえたのは、鼻下に立派な髭をたくわえた、五十歳前後の紳士だった。
「今そこで丁度お会いしたので、お夕食にお誘いしたの、405号室の──」
「笹塚です、夜分に失礼します」
「これはこれは、どうぞお上がり下さい。僕は王賀隆夫[おうがたかお]です、こっちは妻の美月[みつき]」
 柔和でこれまた美中年の紳士は、ビーナスの夫であった。僕はこの、二十歳は年の離れて見える美しい夫婦に、少々嫉妬した。が、それから二時間にも及ぶ豪華な夕食の席で、僕の嫉妬は素直な憧れと、尊敬の念に変わっていった。話上手で話題豊富な夫と美しい妻は、食事中一度も僕を飽きさせることはなかったし、美月の作る極上の料理や、芸術品とも言えるカーブを描くグラスに注がれたワインは、鈍感な僕の舌をも驚愕させた。そして何より、これが同じマンションかと思わせる程趣味の良いアンティークの調度品の装飾や、それらに漂う甘い香の香りが、僕の意識をしばし中世ヨーロッパの優美な世界に飛行させた。香と、ワインと、王賀夫妻の巧みな話術とが、僕をどっぷりと心地よい酔いに浸らせていくのだった。
 いつまでもこの時間が続けば良い。あの殺風景な自分の部屋も、煩い会社も、やりかけの仕事も、満員電車も、エトセトラ、エトセトラ……そんなことは思い出したくもない。このまま、彼等の不思議な空間に飲み込まれてしまえば、どれだけ楽だろうか。ああ、帰りたくない──僕は砂遊びに夢中になる子どものように、随分幼稚じみたことを考えていた。
 そんな甘美な酔いを少々醒まさせたのは、ダイニングの奥の部屋にチラと覗いた、洋間に不似合いな少々陰気な祭壇だった。僕の実家にあった神棚とは全く違う、真っ赤な布で覆われた祭壇で、その上にはクリスタルの花瓶に供えられた榊、異様に長い蝋燭、そこにちょこんと置かれている、蛙の置物──
「蛙」
 不意に僕の口をついて出た一つの単語に、王賀隆夫は、はたと話すのを止めた。
「あれ、蛙ですよね。そう言えば美月さんも今朝、蛙を持ってた。あれは何なんです?」
 酔っぱらった僕は、大胆に、シラフではとても出来ないような不躾な詮索を口に出していた。
「ああ、あの祭壇を見たんだね」
「ええ、そうです。そういやすっかり忘れていた。満員電車で、美月さんは蛙を持ってた。いや、あれにはびっくりしましたよ。ええ、みんな目をまん丸くしてびっくりしていました」
 僕はますます興奮気味に、丸テーブルに身を乗り出すようにして喋り続けた。
「まあ、お恥ずかしいところを覚えてらっしゃるのね」
 王賀美月は、美しい笑顔を見せた。
「そんなことないです。僕はびっくりしましたけれど、同時に、言い知れない感動を覚えたんですよ」
「ほう、それはどうして?」
 王賀隆夫は柔和な微笑みで、僕に外国産の煙草を勧めた。それを一本頂くと、初めての味を胸いっぱいに充満させながら、僕はこうつけ加えた。
「何と言いますか……地味なスーツ姿の見慣れた風景の中にですね、ポッと、美月さんのように美しい人が、蛙を持って現れるわけですからね。とんでもない違和感ですよ。その違和感が、僕を興奮させたんです。新鮮な感動をくれたんです」
 僕は一息にまくし立て、そのために溜まった口中の唾液を、一気にごくんと飲み下した。そして、僕が黙るのを待つかのように、王賀隆夫は口にくわえていた煙草をクリスタルの灰皿に落とし、僕に「蛙」の謎を打ち明けた。
「蛙はね」
 隆夫はそこでいったん言葉を切ってから、重大な秘密を打ち明けるかのように、それでいて、内緒話をする少年のような、聞く者をわくわくさせる笑顔で、
「僕達の神様なんですよ」
と言った。
 おお、蛙の神様! 僕はまさに蛙のように、椅子からひっくり返りそうになった。時刻は丁度、十一時三十分を指し示していた。




 場面は、祭壇のある隣室へと移り変わっていた。
 祭壇を横手に、一人掛けのソファに隆夫が、その対面の大きなソファに僕と美月が座る。美月の向こう側には、先程までは素晴らしく明るかった、あのヨーロッパ調のダイニングが、薄ぼんやりと歪んで映っていた。
「先程の妻の料理はいかがでしたか?」
 隆夫が両手を組み、僕を魅了したあの低音で口火を切った。
「ええ、とても美味しかったです。はじめて見る料理ばかりでしたが」
「あれは、蛙の肉なんですよ」
「蛙?!」
 僕が面食らっている隙に、美月が部屋の明かりを消した。
「あっ……」
 部屋は、祭壇の上の蝋燭の明かりだけとなった。どこからか風が入る度、尖端の炎がゆうらりと揺れ、その明かりがクリスタルの花瓶に反射し、蛙の置物を万華鏡のごとく飾りたてる。
「美味かったでしょう。日本では習慣はないが、フランスなどのヨーロッパの一部地方やアジア諸国では、割とポピュラーな料理なんですよ」
「へえ……」
 僕の舌に、先刻食べた料理の感触が蘇る。腹の中で、ゲーコゲーコと鳴き声がする気がした。
「神様を食べちゃうんですね」
 僕は大胆にも口を挟んだ。
「ええ、僕等の神は、僕等にありとあらゆる恩恵をもたらします。キリストや仏陀やアラーの神なんて、まやかしの希望しかもたらさない。僕から言わせれば、下らない幻想ですよ」
「満員の電車に、悠々と乗ることもできますでしょ」
 美月が、フフフとその美しい頬を赤くした。隣りに腰掛けた美月の体温は、薄明かりの中でより敏感に感じられ、僕は無意識に膝の上の両手を握りしめた。するとその時、ファッと入ってきた風によって蝋燭の炎がかき消され、部屋は突如暗闇に包まれた。
「まあ……」
 美月は小さく呟くと、そっと僕の腕を掴み、側に擦り寄ってきた。それは僕の期待した出来事だった。
「気にすることはない。続けましょう」
 そんな僕等の姿が見えるのか、それとも見えていないのか、隆夫は冷静な声で暗闇を肯定した。しばしの静寂の中、僕の右半身は驚くほど熱く脈打っていた。僕の右頬に、腰に、膝に……美月のそれが、つくか、つかずかの距離で迫っている。硬直してしまっている右腕には、彼女の指がほんの小さな力で絡み付いている。この美しく奇妙な妻は、暗闇とはいえ、夫の目の前で何てことをしているのだろう。僕は、酔いと不思議な雰囲気に、理性が流されそうになるのをようやく堪えながら、隆夫に向かって質問をした。
「あの、それは……蛙信仰のようなものなのでしょうか? 例えば、神社の稲荷を崇めたり、ある地方で白蛇を神と崇めるような」
「それとはちょっと違いますね。僕と家内が蛙を神とするのは、笹塚さんのおっしゃったような、古くからの伝統上の地域信仰ではないのです」
 隆夫が述べる間も、美月はちっとも僕から離れなかった。
「では、お二人だけの特別な信仰というわけですね」
「そういうことになりますね。これは僕等の、二人だけの特殊な宗教なのです」
 「二人だけ」という言葉に、僕は再び嫉妬心を覚えた。彼等の創造せし世界は、彼等同士によって守られ、他の何ものにも触れさせず、理解すら許さないのである。だが、僕はこの瞬間、この一風変わった魅力的な男の美しい妻を、今にも肩に抱ける距離に置いている。そしてそれは、美月自身が望んで取った行為なのだ。優越感にも似た妙な感情は、僕を少々得意にさせた。そうして、夫婦の間にしか存在しなかった、この奇怪な信仰の全てを、全くの他人であったこの僕の前に、うち明かしてやりたい気分になったのだ。
「興味ありますね。差し支えなければ、是非詳しくお聞かせいただきたい」
「ええ、構いませんよ。別に秘中の秘というわけではありませんから。それに、僕も妻も、貴方を大変気に入った」
 僕の心臓はドクンと大きく脈打った。この男は、闇でも目がきくのだろうか──僕に寄り掛かる美月に気づいているのだろうか。嫌な汗が額に浮かんだ時、
「と──その前に、もうそろそろ十二時になりますかね」
隆夫がふと話題を変えた。
「そのようですね」
 それに救われた気持ちで、僕は腕時計のライトをつけ確認をした。時刻は十一時五十五分である。美月の指はいつの間にか、僕の腕から離れていた。
「僕等の宗教は、日付の変わる十二時に儀式を行います。蛙の神への感謝を捧げる儀式です。美月、用意を」
「はい」
 呼ばれると、美月はソファを立って、暗闇を熟知しているかのように、スッとどこかへ消えてしまった。十二時──普段なら僕は寝室に入り、そろそろ寝ようかなという時間である。そして、その寝室の階上、つまりこの部屋から騒音が響いてくる時間なのだ。──儀式──確かに隆夫はそう言った。
「儀式……」
 わけもなく復唱する。隆夫は暗闇の向こうで、にぃやりと笑っているように思えた。




 十二時になるまで、僕等は一言も口をきかなかった。その横、丁度祭壇の前で、美月らしき人物がごそごそと衣擦れの音をさせている。こんな近くにいるのに、僕には蠢く生き物の気配と、少々の生臭さしか感ぜられない。いったい、儀式とは何事であろうか? あの騒音をたてる何かが、そこに起こるのは間違いないのだが。
「整いました」
 暗闇の中で、美月の艶やかな声がした。時計のライトを灯すと、丁度十二時になるところであった。すると、ポッと丸い光があらわれた。隆夫が、祭壇の蝋燭に火を入れたのである。その瞬間、目の前に突如広がった光景に、僕はその場に卒倒しかけた。
 蝋燭の中に浮かび上がったのは、赤い丸絨毯の上に干からびた蛙を散らばらせた、一糸まとわぬ美月であったのだ!
 橙色の柔らかな光が、気味の悪い蛙のミイラと、美月の想像通りの美しき裸体──透き通る白さの手足、豊満な乳房、形の良い腰と、その中央に向かってグラデーションしていく赤味を帯びた肌──を、フッと浮かび上がらせるように後部から照らし出し、それは彼女の神秘性を、より一層深めるのには充分だった。そうして彼女は花瓶に生けてあった榊の枝を両手に、とんとんとんとリズムよく、両足を舞わせたのである。騒音の正体は、美月の「儀式の舞い」の足音だったのだ。
「さあ、先程の話を続けましょう」
 呆然とそれを眺める僕の顔を、隆夫は一言で正面に引き戻した。
「さて、笹塚さん。貴方が一番聞きたいのは何ですか?」
「ええ……ええと……」
 僕は先程の威勢の良さをすっかり失って、言葉に詰まった。心地よい酔いは醒め、かわりに僕の頭は緊張感を伴ったパニックを起こし掛けていた──いや、陶酔感と言った方が良いか。
「ええと、お二人が、何故、蛙を信仰するに至ったか……それが、聞きたいです」
 ようやく、途切れとぎれの言葉を口にする。
「いきなり確信をつく質問ですね。それこそが、僕等の宗教の真理たるところです」
 隆夫は、顔の半面を蝋燭の明かりで照らされた不気味な笑顔で、
「いいでしょう、お話しましょう」
と囁いた。
 そうして、隆夫は恐るべき脅威の「真理」を、淡々と話し始めたのであった。その横で、美月はとんとん・とん、とリズミを刻み続けていた。

「僕等は結婚して十五年になります。美月は随分と若く見えますが、あれでもう三十八歳になるのですよ。それでも四十九になる僕には、若すぎる妻ですがね。あれの若さの秘訣は──もうお気づきでしょうが、蛙の生き血です。それこそが美月に永遠の美貌をもたらすのですよ。
 おっと、余計なことでしたね。話を戻しましょう。さて、僕等の家へ来て、貴方は二つの違和感を感じたはずです。一つは、僕は仕事の話も一切しないし、働いている風でもないのに、実に贅沢な暮らしぶりであること。これは、まあ、簡単なことです。僕の親がそこそこの財産を残してくれたのでね。僕等は幸運にも、こうして働かずして生きていられるのです。
 そしてもう一つ。実はこちらが重要なのだが──仲の良い夫婦の家に、子どもの姿が見あたらないこと。僕達の間には、残念なことに子どもがいない。本当に不幸なことです。作らないのではない、出来ないのです。ちょっとした事故でね。あれは、子どもを産めない体になってしまったのですよ(と言って、彼は恍惚の表情で舞い続ける美月に目をやった。彼女の顔は、こちらの話などまるで聞こえていない風だった)。
 だが、その昔、つまりあれがまだ母体としての役割を担っていた頃、一度だけ子どもを宿したことがあったのです」
 と、ここで、隆夫は祭壇に奉られていた血の色の飲み物を、一口飲み込んだ。僕も、忘れていたまばたきをして身構えた。
「結婚して一年のことです。忘れやしませんよ、寒い冬のことだった。その頃僕等は、何処にでもいる幸せな新婚夫婦だった。妻は出産間近の身重だった……美しい妻、手に余る財産、それに間もなく愛しい子をも授かることが出来る。僕は、人生の絶頂期にいることを何度確信したことか! ──だが絶頂を向かえた後は、坂を転げるように落ちていくのみだということを、その時僕は気づかずにいたのです。あれ程の幸福が、薔薇色だった未来が、音もなく崩れさっていくのを、僕はこの目で見ました。
 美月の陣痛が突然始まったのは、夜中でした。苦しむ声で目を覚ました僕は、瞬間的に妻の陣痛に感づき、病院に連絡を入れようとしました。しかし、美月は苦しみのあまり僕の手を掴み、離そうとしません。その時すでに美月は破水し、今にも赤ん坊が産まれる、とそんな状態だったのです──ここでひとつ話を切りましょう。
 先程僕は、結婚して十五年だと言った。今年で満四十九歳ですから、美月と結婚したのが三十四の時です。その年まで僕は独身だったかと言うと……そうではない。実は、美月とは再婚なんですよ。僕には、美月の前に薫という妻がいた。大学の同期だった薫と結婚したのは、僕が二十四の時ですね。薫も、美月に負けず劣らず美しい妻だった。だが、少々高飛車な女でね。正直言って、僕は結婚した早々、口煩い彼女に辟易していたんですよ。それどころか、僕にゃあ元々、薫に対して、愛情何てこれっぱかりもなかった(隆夫は親指と人差し指を、ぴたっとくっつけてみせた)」
「では、何故結婚を……?」
「財産です。薫の家はかなりの資産家だった。その金持ちの娘が、たまたま僕に惚れた──これはチャンスだと思いました。実を言うとね、さっき親の遺産だと言ったのは、薫の両親、つまり義父母の遺産なんですよ」
「遺産。という事は、薫さんも、彼女のご両親も、すでに──」
「ええ。結婚十年目の年に他界しています。僕が殺しました」
 美月の足音が、より一層激しくなった。とんとん・ととん、とんとん・とん……そのリズムはいつの間にか、僕の脈拍と呼応するように、速度をあげていった。
「ちょ、ちょっと待って下さい、殺したって、そんな」
「いや、正確には僕は自ら手を下したわけではない。薫と、その年老いた両親は、雨の日のスリップ事故で返らぬ人となりました。僕は、車のブレーキがあまくなっているのを、彼等に忠告しなかっただけです」
「…………」
 僕は複雑な気持ちで、浮いた背中をソファの背もたれに沈めた。先程までは、甘い心地良ささえ覚えていたはずの香の匂いが、もはや薄気味悪い煙にしか感じず、重厚な美しさを誇っていた調度品は、いつの間にか不気味な笑みを浮かべていた。
「かくして、膨大な財産がこの手中に収まりました。そうして僕は、すでに深い仲だった最愛の人、美月との第二の人生を送ることとなったのです。それからの一年、それはそれは幸せでした。まさに、人生最高の時だった──」
 その辺りから、今まで冷静沈着だった隆夫の声が、段々と隆まっていくのを、僕ははっきりと感じていた。
「そして、先程も途中までお話した、あの冬の夜のことです。もう病院まで持たないだろうと判断した僕は、その場で出産することを決意し、急ぎ清潔なシーツと産湯を用意して、安心させるように彼女の側に座りました。緊急時の対処については、病院で習っていましたからね。すると、美月は僕の手と、大きなお腹をぎゅっと掴みながら、こう呻いたのです。
 『薫さんの、薫さんの恨みよ!』とね。僕は、何のことかと思いました。あまりに出産が苦しいので、そんなうわ事を言うのだと思いました。そうしてまもなくして、子どもは産まれましたが──」
 ふいに、僕の鼻に、干物蛙の腐臭が突き刺さった。
「死産だったのです」
 隆夫は、てんかん患者のように、見た目にわかるほどふるふると体を痙攣させた。対照的に僕は、彼の見開いた瞳を凝視したまま、ソファの上で金縛りにあっていた。
「僕は取り上げた子どもを見て、愕然としました。子どもは、母親の体内でしか、生きていられない哀れな存在だったのです。
 この世には産まれてはいけない存在だった──呪われた子だった!
 そう! まさに薫の恨みの結晶だった……!!」
 そう叫んで、隆夫は舞い狂う美月の下に散乱した蛙の中から、一匹のミイラを取り上げた。
「その子は、生まれつき脳味噌の無い子だったんですよ。ほら、こんな風にまるで蛙のようにね!!」

 隆夫が突き出したそれは、あるべき所に頭蓋がなく、顔面の上部に目玉がギョッと突き出た、蛙のような──嬰児のミイラだった。

「ひっ、ひぃ!!」
 僕は、僕は、僕は……ああ! 選ぶべき言葉が見つからない! とにかく僕は死にもの狂いで、この場から去りたい一心で、言うことを聞かない震える足をばたつかせた。だが気持ちばかりが焦ってしまって、ソファから転げ落ちることしか出来ない。尻餅をついた僕の下で、一匹の蛙の干物がグエッと音をたてて割れた。
「美月はそれが元で狂ってしまった。自らの腹をナイフで突き刺し、二度と子どもの宿せない体になってしまった。
 だから、だからね笹塚君。僕は、この哀れな蛙を神として崇めてやることにしたんだ。薫の恨みのつまったこの蛙を奉り一生を捧げることで、僕は懺悔をしているんだよ!」
「たっ、たった、助けっ」
 隆夫はウウウウと唸り、誰に助けを求めているのか宙をもがく僕の顔に、奇怪な格好をした嬰児のミイラを押しつけた。腐った臭いと、小さな小さな五本の指が、僕の顔を叩きつける(それは思いの外、発泡スチロールのような軽い感触だったが、それが偽物でないことが僕には理解できた。嗄れた皮膚を覆ううぶ毛までリアルな目の前のそれは、確かに、紛れもなく、現実だった)。
 その顔かたちは驚くべきほど蛙そのものだったが、僕は確かに、そのひしゃげた腹に、臍の緒のなれの果てを見つけてしまった。
 僕はその場に、胃の中の物を全てぶちまけた。強烈な酸の臭いのする水溜まりに、蛙の足らしき物体がごろりと転がった。
「さあ、笹塚君も蛙の神に祈りたまえ! 王賀薫と、その両親達と、僕等の哀れな子どもの魂を、安らかな眠りに導きたまえと!!」


7(エピローグ)

 そこから、何処をどうやって逃げ出したのかは、残念ながら覚えていない。ただ、鮮明に記憶するのは、我が子のミイラを高らかに掲げ、目を見開き絶叫する王賀隆夫の姿と、一心不乱に踊り続ける美月の、なおも美しい下腹部のその中央──先程は単なる赤味と思ったその場所に、大きな傷跡が笑っていたことだった。
 何故かそれを見た時、僕は、昔見た、腹の裂けた蛙の姿を思い浮かべていた。

 王賀夫妻が505号室から忽然と姿を消したのは、その翌日のことだ。その夜から、騒音はぱたりと止んだのである。後に、警察に事の一部始終を話し、警官同伴のもと彼等の部屋を捜索したのだが、見事な調度品も高価な家具も、全てそのままに、二人の人間だけが消え去っていた。そして、あの不気味な赤い祭壇も、二人と一緒にその場から姿を消していた。
 その事件以後も、結局、僕は相も変わらず、満員電車に揺られ続けている。もう「今以外の何か」に憧れることはやめた。
 そして今もどこかの町では、午前十二時が訪れる度、王賀隆夫と、その美しい妻王賀美月の、世にも妖しい儀式が行われ続けているのだろう。

※おまけ
話中に出てくる「ピアノ騒音殺人事件」は、このサイトさんで詳しく扱っています。

『震える唇』2001-08-31

※「僕」は、キスをすることを異常に恐れていた。その原因となった過去の出来事から、現在に至るまで。くどい。

 僕はキスをするのが怖い。
 あの、頬にかかる鼻息、ぼってりと湿った唇やぬめぬめとした舌の感触、粘液を落としながら歯列を這うナメクジのような舌先、ざらついた口内……それら全てに嫌悪した。恐怖さえ感じた。
 かと言って、僕が行き過ぎた潔癖症だったかというと、そうでもない。その先の、もっと生々しく俗っぽい行為には何の抵抗も感じず、むしろ人並みの快感をともなうものであったし、口と口を合わすことさえなければ、僕はただの、健全な一般男子に過ぎないのだが、あのキスという行為だけはどうしても拒絶反応を示してしまう。
 そういう、ある種病的な癖があるためか(勿論、それだけが原因ではないのだろうが、大抵の場合直接的な破局の原因はこれだった)、僕の恋愛は長く続かない。最初、相手の女性は僕がキスを躊躇するのを見て「まあ可愛い」とぐらいにしか思わず、関係を持った女性のなかには、年下の初心な異性を弄んでやりたいという、ある種の悪女的な嗜虐嗜好によって重宝がられることもあったものだが、そのうち本格的に、真剣に僕が嫌がっているのに気がつくと、興ざめしたり愛情を感じないとか何トカ言って、皆僕から離れていくのだった。精一杯愛嬌と色香を振りまこうとしている顔のすぐ側で、眉間に皺を寄せ歯を食いしばられては、どんな善人でも腹立たしくなるだろう。
 無論、僕に彼女達への愛情がないのではない。僕がこういう体になってしまったのは、思い出すのも忌まわしい、過去の経験が関係してくるのだ。


 それについて話すのは、凄ましい嫌悪感があるし、同時にひた隠しにしてきた恥部を晒け出すことにもなるのだが──いや、まずは諸君に僕の身の上話を聞いて貰おう。その上で、僕自身が未だ決着のつかない疑問を、君達が変わりに答えてくれれば幸いである。
 僕がキスが出来なくなった原因──それは僕の幼少期にまで遡らねばならない。僕はある片田舎の町に生まれた。父親は、僕が八歳の時に病死した。どんな病気だったかも覚えていないし、それについて今更悲しいとか、不幸だったなどとはこれっぽちも感じないのだが、父の死が、僕と母との異常な生活のきっかけになったかと思うと、少々うらめしい気分にもなる。で、その異常な生活について、僕は恥ずかしさと気持ち悪さに耐え、ここに話さなければなるまい。それこそが、僕のこの禍々しい性癖の元凶そのものなのだから。
 父が死に、母は頼るべき親戚も親しい友人もおらず、たった一人の幼い子どもを抱え途方にくれた。そういった寂しさからか、それとも元来病的な因子があったのか、彼女は僕が中学に入った頃から、僕を子どもとしてではなく、一人の異性として意識するようになったのだ。それは最初、僕の単なる気のせいだと思っていた。妙に艶っぽく感じる視線も、時折向けられるニタニタとした厭らしい笑みも、僕が性的なものに興味を持つ年頃になったからそんな馬鹿げた妄想を抱くのだ、自分が悪いのだ、と自身に言い聞かせていた。
 それが、けして気のせいなどではない、とはっきりしたのは、十四歳になったばかりの夏の夜のことだった。寝付きのすこぶる良い僕は、布団を被ってものの五分で眠りについたのだったが、床についてから数時間が過ぎたと思われる頃、ふと顔面にかかる暑苦しい空気のうっとうしさに、朦朧とした夢の世界から現実に引き戻された。もしかすると幽霊の類なのではないかしら? と、体を硬直させたまま恐る恐る薄目を開ける。すると、確かに仰向けになった自分のすぐ側に、温かな生き物の気配を感じるのだ。最初は暗闇でぼんやりとしか見えなかった生き物の影は、目が慣れてくると次第に輪郭がはっきりしてきて、やっと正体がわかった時には、僕は思わずひゃっと叫び出してしまう程驚いた。それはでっぷりと肥え太った、四十を越える僕の母親だったのだ。
 ああ、僕はその時ほど恐ろしかったことはない。鼻先が触れるほど近くから、ふー、ふーっと頬になま暖かい風がかかる度、僕は全身に脂っこい汗を滲ませた。そうして母の分厚い舌は──僕は随分とねちっこい書き方するが、それはけして大袈裟なのではない──僕の顔中を泡っぽい唾液で濡らし、恐怖のあまりギュッと閉じられた瞼を吸い、うねうねと唇をなぞった。僕の唇の隙間を、無理矢理こじ開けて侵入を始めるその舌は、川原の岩影なんかに潜む、うぞうぞとした不気味な虫けらのように思えた。
 僕はあまりの事に白痴のように放心し、さらには、次第に荒く不規則になる母の鼻息が、普段は感ぜられない体臭が、蒸し暑い空気をさらにムッとさせる肥満者の体温が、全てが僕を恐怖に陥れ、けだものと化した母親をはねのけるだけの気力を失わせた。
「これは夢だ、これは夢だ、これは夢だ」
 意識が遠のきそうになる頭の中で、何度も繰り返す。しかし僕の唇を行き来するそれは、明らかに現実のものであった(ただ、翌朝の彼女の態度は、あれは本当に夢だったのかしらと疑わせるほど、あっけらかんとしていた。だが全身で平常を装う母の目に、より一層淫靡な輝きが増していたのを、僕は見逃さなかった)。結局、母の異常な行為は十分かそこらの間続けられたのだが、僕には無限を織りなすループのように、永遠の時間に感ぜられた。

 母の行為は、顔中をベトベトにする激しいキスのみで、男女の一線こそ越えなかったものの(もしも最後まで事が運ばれていたなら、僕は世の女性全てを嫌悪し、同性愛にでも走っていたことだろう)、僕が高校を卒業し就職先を見つけ家を出るまで、実に五年弱の間、毎夜毎夜続けられたのだった。
 何故その間、僕は母を叱咤し罵声の言葉を浴びせなかったか、もしくは家を飛び出さなかったのか。諸君は当然の如く疑問に思うだろう。僕自身、あの最初の夜に母をはねのけていれば……一夜の悪夢に終わっていれば、どんなにか良かったことだろうと思う。だがしかし、僕の心のうちは母を強烈に嫌悪する一方で、苦しい家計の中で何とか僕に学校に通わせようと必死に働くその姿に深い感謝をしていたし、深夜の行為や厭らしい視線、笑みを除けば、それは立派な賢母ぶりであったのだから(まるきりジーキルとハイドがいっぺんに現れたかのように)、勿論異性としての愛情は一欠片も無かったのだけれど、どうしても母を詰ることが出来なかった。それだけではない。僕の憔悴しきった思考力が、このまま母の呪縛から逃れられないような、諦めの気持ちを生み出させていたことも、僕を家出する勇気から遠ざけさせていた一番の要因だった──つまり恐ろしかったのである。
 男性諸君はお分かり頂けるだろう。健康な男子であれば、肉親、ことに母親に対する性的な妄想は、ちらと考えただけで吐き気を覚える類のものだということを。それが僕の場合現実となってこの身にのしかかるのだから、母のキスがどれだけ僕を痛めつけたか、そして僕の正常な判断力を鈍らせたかは、案外容易に想像しえるのではないか。
 だからこそ僕は、もしかしてこれは精神的な治療可能の病気──例えば昨今流行りの多重人格のような──なのではないか? もしくは、母は僕自身に異性への愛情、近親相姦的なそれを抱いているのではなく、単に身体的な欲求から、世の女性が良く言うところの「寂しさのあまり」に犯した罪なのではないか? そうも考えていた。むしろ、そうであってくれと願っていた。いずれにせよ狂気の沙汰だけれども、そう考えたほうが幾分か気も休まるのだ。

 そのような経緯から、僕は、母の唇から物理的に離れた今でも、誰ともキスの出来ない体となってしまったのだ。どんな美女が相手だろうと、顔を寄せた途端に、母の脂ぎった醜い顔──落ちた頬。深く刻まれた笑い皺。動物のように黒目だけが覗く、腫れぼったい細められた瞳。最大限に引っ込めた僕の舌を、執拗に追いかけるハイエナの舌──それらがワッと目の前に、さも実際に存在するかのようにフラッシュバックする。びっくりして目をつぶれば、今度は瞼の裏に母の顔が現れ、感覚だけとなった美女の唇は、一層薄気味悪い母親のそれに感ぜられるのだ。母の呪縛は未だ僕を苦しめるのだった。
 多分、僕が本当に心地よいキスが出来るようになるのは、母が僕に対し罪を認め、謝罪し、僕自身が母を許せたその時なのだろう。僕に母が許せるか──しかし、許せる日が来るその前に、母はあっけなく逝ってしまったのだった。


 母が病床についているとの連絡があったのは、今からほんの二ヶ月前だ。もう十年近くも音信不通だった母が、突然手紙をよこしたのである。便箋には、弱々しい字で、自分がもう長くない病気であることが綴られており、それから、一目でいいから僕に会いたいとも書いてあった。だが、あの地獄絵図の五年間については、全く触れられていなかった。それについて僕は何故かホッとし、また一方で耐え難い憎悪をも抱くのであった。
 僕が死にかけの母に会いに行くことを躊躇したのは、それだけの理由ではない。
「どうしてあなたは、僕にあんなことをしたのですか?」
 あの十四の夜から、ずっとずっと聞きたかった疑問を、僕はついに口にしてしまうかもしれないからなのだ。
「あら、あんなことっていったい何かしら?」
 そんな風に素っとぼけられれば、どれだけましか。いっそのこと、ボケっちまえばいいのに! そんな事まで思うのは、僕が最も耳にしたくない、母の告白を恐れているからなのだ──愛の告白。ああ、実の母親からの真剣な愛。それほど僕を狂気に導くものはない。
 憎い憎い憎い憎い憎い、けれども、賢母であってくれやと、どうか正常なる一人の母親でいてくれやと、憎しみの中のほんの少しの希望で、僕はようやく狂気の世界から逃れていられるのだ。その押さえつけの反動として、僕のキス恐怖症があるのではないか。

 ともかく僕は散々悩んだすえ、結局、出て来たきりになっていた、片田舎の町にある実家を訊ねた。そして、当時よりも見窄らしくなったアパートのドアを開くと、そこには寒々とした陰気な空気と、布団の上に横たわった黄色い棒切れとがポツリ、小さくなっていた。
「母さん」
 呼びかけに、棒はつぶっていた瞼をゆるりと開けた。濁りきった白目には似つかわしくないほど澄んだ黒目に、僕の姿が映った時、棒切れは
「……おお、おお、純一、純ちゃんかい? 来てくれたのね、おお、おお」
と僕の名を呼んだ。
 この無惨に痩せ細った枝のような塊が、本当にあの母なのだろうか? 僕はにわかには信じられなかった。布団の上の棒切れは、紛れもなく僕の母親だったのだ。病気のせいか、はたまた十年のうちに段々と衰えていったのか、あのでぶでぶと太った母は、辛うじて面影だけは残すものの、目を背けたくなる程痩せ、野太かった声も枯れ果ててしまっていた。僕は、何だかやりきれない心持ちになり、そっと視線をそらせた。
(これが僕が憎んでいた母なのか? こんな哀れな塊が──)
 彼女は、まだ微かながら生命活動を続けている、一己の人間であった。しかしそれは、ちょいと衝撃でも与えてやれば、すぐにでも死んでしまうような、本当に弱々しい塊だった。
 僕は同情心とでも言うべきか、先程までとは全く正反対の、妙な感情に戸惑っていた。ここで母が五年の日々について謝罪すれば、僕は微笑んで、許してしまうような気がした。
 だが、哀れな母が渾身の力を振り絞って僕の手を取り、さもいとおしそうに自らの頬に撫でつけた瞬間、僕の中に一瞬間隠れていた憎しみが、苦しみが、ワッと立ち上がる炎のように蘇り、二倍にも三倍にも勢いを増して溢れ返った。僕は、自分でもそれがはっきりとわかるほど、下唇をぶるぶると震わせながら言った。
「どうして僕にあんなことをしたのですか」
 一息に言い終えると、頬ずりをしていた母の目が、当時のままの黒目だけの目に変わった。ひからびて黄土色になった皮膚の上で、その瞳だけは、ぞっとするほど動物の生臭さを匂わせていた。
「何故、あんな──実の子に手をかけるようなことを」
 僕は、さらに詰め寄った。言うべきではないと思っていた言葉は、僕の震える唇から呻きとなって洩れていた。ああ母よ、あなたは何故あんなことをした? 病の虫か、気の迷いか、それとも──
「母さんはね、あんたをね、愛してたの。好いていたのよ」
 母は薄くなった唇を噛みしめ、衰えた声帯からひゅーと空気を漏らしつつ、絞り出すように叫んだ。それは、僕の一番聞きたくなかった言葉であった。それでも母は、恐るべき執着で僕の膝にすり寄り、
「お願い、最期にね、最期にね、一度でいいから純ちゃんからキスして頂戴」
と、僕に懇願をした。しかし僕は、縋りつく手を邪険に振り解き、それでもなお僕を見上げる母の顔を、ぎっと睨み付けた。
「おお……」
 乾いた唇が落胆を呻き、皺だらけの顔が悲痛に歪むのを、僕はただ睨み続けるのだった。
「愛している、愛しているのに……」
 母は、最後には聞き取れないほど小さな声で「愛している」と呟きながら、無念のまま死んだ。その乾いた目の際には、たっぷりと涙の粒が乗っていた。

 ただただ、母の遺体を眺めて座り続ける。その間僕の心に生まれたのは、想像していたような狂気ではなく、奇妙な、僕自身どう説明していいのかわからない、胸の悪さだけであった。

 母が基督教信者だったことを知ったのは、それから暫くして、枕元に置かれた聖書を見つけた時だった(その後の質素な葬儀も教会で行われ、母の遺骨は教会内の共同墓地の片隅に埋葬された。そこで、母は僕が出ていってからすぐ基督教に入信し、死の三年程前からは毎週足繁く教会へと通う、熱心な信者であったことを聞いた)。それを手にとって、パラパラとページをめくりながら、僕は基督教に傾倒した母の思惑を考えていた。それは、母の僕に対する懺悔であったともとれた。だが、彼女が死に際に僕に告げたのは、懺悔でも、謝罪でもなく、愛の言葉だったのだ。基督教は、近親相姦行為を固く禁じているはずだ、それにも関わらず──Jesus Christは、それでも僕に母を許せと言うのか。全てを許せと、愛せというのか。
 救世主は答えない。僕は、僕自身に疑問をぶつけた。
「僕は、母の最期の望みに答えてやるべきだったのだろうか?」
 母の今際の際の願いを拒んだことで、悲痛のうちに死なせたことで、僕の憎しみや復讐心は満たされ浄化されたか──いや、僕に残されたのは、如何ともしがたい後味の悪さだけだった。あの時、母の唇に少しでも触れてやれば、彼女はきっと満足して死ねたのだろう。しかし、その場合僕には何が残ったのか?
 死んだ者のことをあれこれ考えても、もはや仕方あるまい。けれども僕は、あの時どうすべきだったのかを、ずっと悩み続けているのだ。
 どうすれば、僕は母を許すことが出来たのだろうか?

 今でも僕の唇には、母親の姿をした悪魔が潜んでいる。

(C) Nano Sasaki. 1999-2017