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『共犯者の殺人』2004-03-10

※三年くらい前に書いた「ジュディおばさんの焼却炉 〜共犯者〜」のリメイク版のさらに手直し版。ノワール色が強くなったかな、という気がします。会話文が少し下品なので、苦手な人はご注意を。

<1>

 その夜響いた一発の銃声に、住民達は誰一人気が付かなかった。
 新月の夜だった。街灯の少ない寂れた住宅街の外れにある小さなアパートでは、ある部屋ではドラッグパーティーが、ある部屋ではゲイカップルの無防備なセックスが、そして四○五号室では一人の女の人生が誰にも気付かれることなく終わるところだった。
 レイは女の胸を撃ち、撃たれた女は即死した。死を迎えるまでは星の煌めきほどの時間も掛からなかった、もっとも今夜は星の一つすら見えなかったが。
 女は撥水加工を施された安物のビニールソファの上で、両手足を放りだした無防備な格好のままぴくりともせず固まっている。かわりに、湯気を立てんばかりのわきたての血液が女の重みで出来たソファの窪みに静かに流れ出し、徐々に血溜まりを作りかけていた。それ以外にこの部屋で動こうとするものは何一つなかった。
 レイは腕を胸の高さまで上げ、両手の平で拳銃を握ったままじっと動けずにいた。拳銃と指先は癒合し、足の裏とフローリングタイルの区別もつかない。どれくらい前にまばたきをしたのかさえ忘れてしまった。見開いたままの目の縁は乾き、濁り、瞳はただ漠然と目の前の光景を写し取っているだけで、それが何を意味するのか脳に伝えるのを拒否しているようだった。
 心臓が活動を再開し体中に血液が運ばれたドクンという音を合図に、やっとレイの耳にコンクリートの壁を越えて大音量で鳴り響く隣家のBGMが届いた。耳の感覚が戻ったのをきっかけに、麻酔から急激に醒めたモルモットよろしく、血溜りの中の女が見え、拳銃のぬくもりを感じ、むせかえる程の血の匂いに吐き気をもよおしたレイは、たまらず拳銃を放り出しバスルームへ駆け込んだ。蛇口を全開にし、洗面台に顔ごと突っ込んで今日の昼食を全て吐き出すと一瞬胸が楽になったが、排水溝から洩れだす生臭い匂いにまた気分が悪くなり胃液まで吐いた。これ以上出るものはない、というほど吐き終えた時にもまだ胸のむかつきは残っていた。
 しばらくつっぷした後のろのろと顔を上げると、備え付けの鏡に映った彼自身と目が合った。一瞬目をそらし、それから恐る恐るもう一度眺めた。顔からはまるで、自分自身が血を流したかと錯覚するほど血の気が失せ、後ろが透き通って見えるのではないかというほど色がない。その中で白眼だけが真っ赤に晴れ上がってぎらついていた。肩まで伸ばした金髪が、沼の藻のように頬にまとわりついていた。昨日まで幸せだったはずの自分の顔は、今は見る影もない。少しばかり顔が良くて、社会人の男として常識的な範囲の自由になる金を持っていて、やさ男だったレイモンド・ブラウンはどこにもいない。鏡の中にも前にも、今までニュースや新聞で何度となく見せられてきた殺人鬼の中で、もっとも立体的な殺人犯がいるだけだった。女を殺したレイモンド・ブラウン。人殺しのレイモンド。女の胸を拳銃で打ち抜いて、ビビリまくって動けなくなったあげくに胃液まで吐いた放心状態のレイ。彼は渦を捲いて消えて行った吐瀉物の中に紛れてそのまま逃げてしまいたかった。ここでなければ、下水道でもどこでも良かった。
 レイはその場に座り込んだ。彼は逃げられる場所などこの世にはないということを、たとえ殺人犯のレッテルから逃れられたとしても今日のこの感覚からだけはけして逃れられないことを、自分はそういう人間だということを知っていたから、もう座り込む以外に出来ることはないこともわかっていた。もう一生、この胸のむかつきが消えることはないのだ。
 じっと黙っていると、何も考えまいとしても自然に先程の出来事が反芻される。紫色のワンピースを脱ぎ、真昼の地中海色の下着姿になった女が自分の首に腕を回す。女はそれから誘うような腰つきでソファに寝そべり、こちらを見上げて笑顔を作り、股を開き──そして──銃は発射された。女は死んだ。驚いた顔をする暇もなく死んだ。
「俺が殺した」
 口に出してからようやく、これが夢でないことがわかった。もしかすると夢ではないか、という馬鹿な考えが何度か頭をかすめていた。俺が人を殺す? お人良しのレイが? おいおい、夢でも見てるんじゃないか? ほら、アイツも笑っているじゃないか──ソファの上で死んだまま。逃げられないことを充分過ぎるほど知っていて、それでも逃げたいとあがき、結局柵に首を挟んでとうとう何も出来なくなってしまった篭の小鳥のようだった。
「それでもやっぱり逃げたいんだ、俺は」
 それからふいに年老いた両親の顔が浮かんで、レイは火のついた赤ん坊のように泣きじゃくった。

 レイは泣き疲れ、何千年も風雨にさらされた川辺の小石のように、惨めったらしくぽつんと座っていた。彼の心は混乱の果てに現実と異なる世界へ旅だち、そこでは彼の目は消えて、鼻はしぼんで耳は千切れてどこかへ飛んでいってしまっていた。だから勿論、バスルームのドアの陰に男が立っていることにもなかなか気付かなかった。
 パーカーとジーパンというラフな姿の巻き毛の男は、何をするでもなくドア枠に寄りかかり、ぼんやりと小石を見下ろしていた。口角がゆるやかに上がり、微笑んでいるようにも見える。おかげでもう少しで殺人のことを忘れてしまえるところだった。自分が本当に小石になってしまったかとさえ思えた。男がやあ、とでも言うように軽やかに口を開き「アレ、君が殺したの?」と言うまでは。
 レイの思考は空想の世界から墜落して、真っ白になって弾けた。殺した女や今の自分の情けない顔、両親の顔が爆発的に砕けちり、本能的に男に掴み掛かってはバスルームのタイルに押し倒して馬乗りになった。
「……見たのか」
「おい、待てよ」
「見たのかと聞いている!」
「僕は待てよと言っているんだ」
 レイはパーカーの襟元を強く握り直すと、真上から男を睨みつけた。
「そんなことはどうでもいい! 見たんだな。あの死体を見たんだな。俺はお前を殺さなきゃならなくなった。俺は殺したくない。だが俺は逃げたいんだ、捕まりたくないんだ! ああ、ああ、そうだ、俺は捕まりたくないんだった!」
 レイは自分が何をしようとしているのか半分自覚し、半分夢うつつに男の首に手を掛けた。男は手に力が込められるタイミングを冷静に判断してから言った。
「大丈夫、わかってるよ。だが考えてみろ。僕を殺すのは簡単だが、厄介な死体が一つ増えるだけだぜ」
 命乞いをするでもなく、あくまで冷静に、余裕さえ見せて思いがけないことを言った男に、レイの頭はますます混乱した。腕が殺せと命令し、唇は震え、頭は停滞している。
「つ、捕まりたくないんだ、親父やお袋に、友達、ば、ばれたくないんだよ、かか、か、会社の上司も」
「オーケー。わかった。わかったよ。でもな、僕を殺すよりもいい考えがある。それを聞けば僕が死ぬ必要がなく、君は捕まらず、明日からも君として平和に生きていけるいい考えが」
 レイが喉元を締めようとした手を、男はほんの数秒喋るだけでいとも簡単に制止した。首を挟んだ小鳥の柵を、そっと押し広げるのよりも簡単に。
「どういうことだ?」レイは言った。「なに……何を言っているんだ? わからない」
「死体隠し、手伝ってやるよ。ここらのボンクラ保安官共にかかっちゃ、死体が見つからなければ殺人はなかったのと一緒だ」首を掴んでいた手がゆっくりと離れた。男は腑抜けになったレイをどかし、立ち上がってパーカーについた彼のよだれを払った。
「まあ落ちつけ。つまりこういうことだ。君のやった殺しの後始末を、僕が手伝ってやる」そしてしゃがみ込んで、万引きが見つかった子どものような眼差しのレイを見た。「ゆする気もないし、報酬もいらない。しいて言えば、俺を殺す権利を放棄してもらうだけ」
 レイの眉間はますます複雑に絡まった。
「ま、まだわからない。いや、言っていることはわかった。お、俺がわからないのは、何で見ず知らずのあんたがそんなことをするんだ、ってこと……。あ、あんたがするべきなのは、叫んで外に飛び出すか、911をダイヤルすることだけだろ」
 男は驚く程可愛気のある、屈託の無い笑顔を浮かべて「僕もあの女が気にくわなかったんだ。死ねばいいと思ってたし、今日も殺すつもりでここへ来た。それにあんたは言っただろ、『捕まりたくない』って」
と言った。


<2>

 男は自分をルディだと名乗った。
 二人はルディの指示で、女の死体を新聞紙で丁寧に包み、廊下に血が滴らないよう慎重にバスルームへと運んでいた。つい先程まではセクシーだった青色のランジェリーは、紫色に変色し小汚い雑巾のようだ。
「なあルディ。お前は何でここへ?」硬直しかけた死体の足首を掴み、また吐き気をもよおしている自分とは対照的に、まるで冷蔵庫でも運ぶかのようなノリの奇妙な男・ルディに、レイの好奇心が疼いた。
「さっきも言ったはずだ」ルディはつまらないことを聞くのはごめんだ、とでもいう様にぶっきらぼうに言った。
「気を悪くしないでくれ。俺が知りたいのは、お前は何者か、ということなんだ」
「僕が誰か? ずいぶんと哲学的なことを聞くんだな。それとも、僕がゲイであんたに首ったけだとでも思ったか? 僕はそれ程恋愛狂じゃないぜ、あんたみたいに」
「わかった、俺が悪かったよ。詮索するようなことはもうしないよ」レイは気まずそうに、ルディからも死体からも目をそらせた。ルディはそれを見てぷっと吹き出した。
「ジョークだ、悪かったよ。からかっただけだ。あんたの緊張を解きたかっただけだ」
「やめてくれルディ、こんな時に冗談なんて。俺はてっきり、マズイことを言ってあんたに殺されるんじゃないかとヒヤヒヤした」
「殺す? 僕が?」ルディは大げさに言った。「何で僕があんたを殺さなきゃならない」
「あんたの正体がわからないんだ。正直に言うよ。俺は最初、あんたが殺し屋か始末屋じゃないかと考えた。あるいは……いやどちらにしろ、イカれてる野郎だとも思った。けど、どちらもあんたには相応しくない気がするんだ」
「わかった、正直に話そう。君を不安にさせる材料は出来るだけ潰していこう。何、大した理由じゃないんだ」ルディは死体を抱えたまま肩をすくめて応えた。「あの女が町のチンピラ相手にケチな金貸しをしていたのを知ってるか?」
 レイの顔が曇った。彼は顔を横に振った。
「何だ知らないのか。まあいい。僕が今日ここに来た目的は、あの女に借金があったからなんだ」
「殺しに来たんじゃなかったのか?」
「それはそうだ……ああ、それにしても重いな、早くそこを開けてくれ」
 レイは片手でシャワーカーテンを開けた。死体をバスタブに投げ込むと、彼に言われるまま蛇口を捻った。
 ルディは腕を回し、一息ついてバスタブの淵に腰掛けた。「返せない金じゃなかったし、僕はいずれ返すつもりだった。そうさ、僕はそのつもりだったんだが、その時たまたま持ち合わせがなかった。だから今は返せない、もう少し待ってくれと言ったのさ。だがあの女、それを聞いて何て言ったと思う?」
 レイには何となく察しがついた……というのはごまかしだ。自分が今し方殺し、今バスタブで水を跳ね上げている女がルディに何と言ったのか、一字一句間違わずに当てることが出来ただろうし、それこそ声色や仕草まで真似て再現出来るはずだった。
 ルディは少し興奮気味に声を荒げて続けた。「『返さなくてもいい。そのかわりにあなたの身体で返してもらうわ』だ、ニヤッと厭らしく笑ってな。最初から僕を味見するつもりだったんだ。いやきっと僕だけじゃないだろう。今までも僕のような若い男を何人も食い散らかしていたんだろう。何て淫売だ? 僕には色情狂と寝る趣味だってないが、こんな女に金を返す必要があるとはどうしても思えない。それで腹が立った僕は迫って来たあの女にキスするかわりに腹を殴った。殴ったといっても、そんな強くじゃないが……そうしたらあの女、僕を訴えるだとか殺してやるだとかとんでもないことを喚き散らして──どうした、血の匂いに酔ったのか?」レイの顔は真っ青になっていた。何ともない、平気だと言う彼の肩を、ルディは優しく抱いた。「まあそんなわけで、僕は彼女に殺意を抱いたのさ。それだけのこと。しかし、ただ、こういうことは言える。僕が誰か──僕はあんたの共犯者だ」

「これからどうすんだ?」レイは聞いた。
「まずは、持ち運べる大きさに切る」
 あまりにもあっさりと発せられた残酷な科白に、レイは一瞬言葉を失った。
「切る? 死体を切るってことか?」
 困惑するレイに構うことなく、ルディはバスルームを出てすぐ脇にあるキッチンへと向かった。後を追うレイを無視し、戸棚から包丁を取り出して吟味する。
「切るって、そんな……」レイが話し掛けてもルディはまだ包丁を選ぶのに夢中だった。
「別に猟奇的な趣味で言ってるんじゃない。切ってから処分した方が都合がいいんだ──ああ、あった、いいなこの肉切り包丁。それに、どうせ死んでるんじゃないか」
 レイは明らかに動揺していた。みかねたルディは手にした包丁をひっくり返し、柄でレイの頬をぴたぴたと二回、軽く叩いた。
「言い方を変えよう。拳銃で一発ぶっぱなされて即死するのと、死んだ後で切り刻まれるのと。当人にとっちゃどっちが痛い? 苦しい? 答えはどっちも同じ、つまりどちらも皆無さ」
「だからって、それは……」
「何だ、怖じけづいたのか? 度胸を見せろ。思い出せ、さっきやったことを」
 ルディは、目の前でぶるついている男がそんな度胸をはなから持ち合わせていないことをわかっていてわざとけしかけた。レイは顔を横に振ってしばし躊躇ってから、静かに頷いた。
「わかってる、わかってるよルディ。やるよ。やらなきゃならないんだろ? わかってる……でも、あいつは……リズは俺の……俺の恋人だったんだぜ」
 レイには、ルディが次の言葉を待っているのかどうかわからなかった。だが彼が何も言わなかったので、俯いてぼそぼそと話を続けた。
「リズは、俺の彼女だったんだ。可愛い女だった。俺にはこいつだけだと思った。お、俺はリズが金貸しをしていることなんて知らなかったし、幸せだと思ってた。けどあいつ浮気が酷くて……俺の目を盗んで、男を引っぱり込んでやがったんだ。それも、一度や二度じゃない! だから、だから、お、俺、我慢出来なくて拳銃を隠し持って──
ごめんなさい、レイ。悪気はないのよ、貴方がいなくて寂しかったのよ。だって、夜一人で寝るのってとっても寂しいんだもの。わかるでしょうレイ、あたしがいない夜のことを考えればわかってくれるわよね? 本当よ、あたしが一番好きなのはレイだけよ。信じて。ね、愛してるわレイ……ほら来て──そこで俺は、引き金を引いた!)
 ファック! 畜生、何で俺はあんな事を! あんな売女のために、なんて事をやっちまったんだ!」
 レイは話ながら感極まり、凄まじい後悔に襲われた。下らない女に抱いた下らない嫉妬の代償はあまりにも大きすぎた。
「ルディ教えてくれ、俺は、俺は何であんなことを」
 ルディは包丁を脇に置き、泣きじゃくるレイの肩を抱いて赤子にするようにあやした。
「泣くなよ。簡単なことだ。あんたは女に騙されていた。あんたは彼女と付き合ってから昨日まで、幸せだったか?」
「え? あ、ああ……多分」
「本当か? 胸を張って宣言出来るか?」ルディは拳でレイの胸を小突き、語気を荒げた。「あいつはあんたに隠れて金貸しなんかをやっていた。そしてそいつらを片っ端から食ってった。あんたは何も知らずに、顔も名前も知らない男の精液で汚れきった×××に喜んでキスしていた。『愛してるよリズ』『ええ私もおんなじよ!』──客観的に考えろ。こいつはとんでもない間抜けな男だ。そしてこの世でもっとも哀れで不幸な男だ」
「うん、そうだ、その通りだよルディ」
 レイは改めて考えた。本当に俺は幸せだったのだろうか? つい昨日まで、彼女にさんざ振り回されてきた自分は、気付かなかっただけで実際は不幸で惨めな男だったのではないか。彼女の居なくなったこの瞬間から、俺ははじめて幸せを掴めるのではないだろうか?
「世界で一番哀れな男は、今夜自らの手で復讐を果たした。僕は彼を咎めないし、それどころか彼を祝福する」
「本当か?」レイは言った。「俺は本当に逃げられるのか? 逃げてもいいのか?」
「何の罪もない君が逃げるのを止める権利は、誰にもない。僕にもだ。僕の言う通りにすれば、君はきっと逃げられる」
「本当だな、本当に信じていいんだな?」
「ああ、俺を信じろよ」ルディは念を押すレイの頬に祝福のキスをし、その唇で呟いた。
「君は明日から幸せになれるさ」


 水が貯まるのを待つ間、リビングに残った血液を新聞紙とバスタオルで一滴残らず丁寧に拭き取った。タオルはあっという間に赤黒く染まり、ソファは何事もなく元の軽薄なピンク色に戻った。
「ソファが安物で良かったな。本革だったら今頃血液が乾いてちとまずいことになってたぜ」ソファを覗き込んでいたルディは側に転がっていた薬莢を拾い上げポケットにしまうと、顔を上げて笑った。無邪気な笑顔に緊張を解きほぐされたレイもつられて笑った。
「ああ、そうだな。ラッキーだったよ」
「いや、これはただの幸運なんかじゃない」
 途端にルディは微笑むのを止めた。
「きっと神様の思し召しさ。あの女は死ぬべきだった。そしてあんたは、捕まるべきじゃなかったのさ。考えてみろ、あんたは今日の決行を偶然に選んだと思ってる。だが今夜は新月だ。これは偶然か? このアパートの住民達はどんな奴等だ? もめ事には徹底的に無関心で、何よりサツが大嫌いだ。叩けばケツの穴からも埃が吹き出すような連中ばかりだからな。あの女がこのアパートに住んでいたのは偶然か? あんたがこの場所を選んだのも偶然か? ……そして何より」ルディは立ち上がって、うってかわって真剣な眼差しで真直ぐにレイを見つめた。
「ここで僕と出逢ったのは偶然か?」 
 その眼光と言葉のあまりの迫力に、レイは目の前にいるのが生きた人間かどうかさえわからなくなった。こいつは自分とは違う、他の何かではないのか。自分に素晴らしい力を与えてくれる、素晴らしい何か。
「運命だよ。そういうふうに生まれたんだ」
「……本当か?」
「あぁ。僕は──ルディ・アスティンは真実しか話さない」
 ルディの言葉を聞いていると、それがほんものの真実のように思えてきた。不思議なことだったがほんとうにその通りだ、とレイには思えたのだ。俺はこの女を殺すために生まれ、けして捕まるようにはなっていない──神は真実しか話さない。
 ルディはタオルを湯舟に放り捨てて、再びにこやかに笑った。溢れる寸前のバスタブの中で死体は海藻のように歪んでいた。


<3>

「まだ時間にも余裕があるな……」
 ルディは夜半にさしかかった壁時計を見て言った。
「僕はちょっとこれからの手筈を確認しに外に出る。君に見せたいんだが、一緒に来ないか? もちろん一人で待っていてくれてもいい」レイは断れるはずはなかったし、死体の前で一人になるのは不安だった。何しろリズは水を張ったバスの中で笑っていたから。
 ルディが連れ出したのは、殺人現場のアパートから数ブロック離れた、郊外の地区だった。庭の手入れがされていない家が多いのかそこら中で雑草が栄華を誇っている。閑静と言うよりも、寂れた古い住宅街といったところだ。家々の灯りはすでに消え、街灯も少なく、辺りは極めて静かだった。
 ルディが草木の間に身を屈めると、レイもそれに従った。
「あれだ、見ろ」ルディに言われて目を凝らした先には、比較的小綺麗で、こじんまりとした一軒屋があった。
「この辺は老人ばかりが住んでいる地区なんだが、あの家にはジュディっていう婆さんが一人で住んでる」
「それがどうしたんだ?」レイが口を挟むのを、ルディは人さし指を口元に当てて冗談っぽく制止した。
「肝心なのは庭にある焼却炉だ」ルディが耳元に近付いて囁くので、レイはくすぐったさに小さく笑い声を立てた。「そしてもっと肝心なのが、婆さんが少しボケてるってことだよ。それで、何の思い入れがあるのか知らないが、庭の焼却炉に常に火が入っていないと癇癪を起こすんだ。それはもう酷いヒステリーをね。僕が思うに、あの婆さんは過去に焼却炉で何かヤバいものを燃やしたんじゃないかな……まぁ、それは今はいい。そんなだから、あの焼却炉が四六時中煙を吐いていても、家が薫製みたく臭っても、近所も警察も何も言わないし何も一つ疑わないんだよ。可哀想なボケ老人だと思って」
 レイはじっとジュディ婆さんの焼却炉を睨んだ。胸が高鳴っていた。そして話の切れ目で、ルディを振り返った。鼻と鼻がぶつかりそうなくらい近くにルディの顔があった。お互いの息が頬に掛かっていた。
「俺にも何となくわかってきたよ」今度はレイがルディの耳に口をつける。「あそこでし……アレを燃やしちまおうって寸法だな」
「ビンゴ、その通り。死体をバラしてから、証拠と一緒にこっそりあの焼却炉に捨ててしまうんだ。三日三晩も燃やせば、粉々になっちまう。なに、ジュディ婆さんにバレたところでボケてるんだ、どうとでもごまかせる。つまりだよ、あの焼却炉で灰になるまで焼いちまえば、身元もわからなくなる。後は灰を海にでも流せば、万事上手くいくわけさ」
 ルディは囁きながら立ち上がったので、最後の部分はレイの耳には微かにしか聞こえなかった。彼は屈んだまま、不安な表情でルディと焼却炉を交互に見上げた。「でもそんなに上手くいくかな?」
「大丈夫さ。さっきも言ったがここらの連中はボンクラ揃いだ。実際僕もこの炉で三十二人──いや、何でもない。上手くいくさ」
「え、何だって?」
 ルディは答えなかった。ルディと自分の間には少し距離があったし、お互い囁き声だったので、微かにしか聞き取れなかったのだ、と、レイは思った。そして例え微かでも、お互いちゃんと聞こえていたことも知っていた。

 ルディはちょっと待ってろとだけ言うと、どこかへ消えた。そしてすぐに戻って来た。
「何しに行ったんだ?」
「ああ、ちゃんと火が入っているか見て来た。さあ、帰ってさっさと片付けちまおう」
 アパートに戻った二人は家中の刃物と医療用ゴム手袋、鼻を塞ぐためのテープ、それとありったけの新聞紙を用意し、下着を残して着ていた服を脱いだ。髪の長いレイは、輪ゴムで髪を束ねた。レイの指にささくれを発見したルディは、彼に手袋をするよう勧めた。
「なんでこんなものがあるんだ?」レイははめにくいゴム手袋を難儀して付けながら訊いた。
「男がか女がかは知らないが使ってたんだろ、アレの時に……よし、じゃあ僕は上半身をやるから、えーと……」
「レイでいい」
「レイ、あんたは下半身だ。トランクに入る程度の大きさにするだけだ、そんなに細切れにするわけじゃない。切り方はどうでもいい、太い骨は折れ、肉片は可能な限り拾え。オーケー?」
「ああ、わかった」レイは窮屈な手袋を肘までたくしあげ、肉切り包丁を握った。握りしめた手が全く震えていないことに気がついて、思わず笑ってしまった。
 浴槽の水は底が見えないほど真っ赤に濁っていたので、ルディは水中に腕を突っ込んで、手探りでリズの髪の毛を探した。
 しばらく二人で世間話をしながら解体作業を進めた。特に下半身の解体は驚くべきスピードで、いともスムーズに進んだ。
「レイ、あんたこの辺の者じゃないだろ」ルディがレイに訊ねた。
「ああ、そうだ。こいつ(と言ってレイは死体の太腿を見た)に会いによく来てはいたが……何故わかる?」
「この町は閉鎖的だ。ここのような流れ者が集まるアパート街を除けば、町中の奴等がお互いを知っているといってもいい程だからな。それに……ここらの人間は偽善的で、熱狂的に神の正義を信じるくせに、目に見えるものしか信じようとしない。そして自分を疑わない。そのくせ胸の中ではいつも誰かに毒づいている。そんな連中ばかりが集まってひっそり腐っていくような、典型的な田舎だ。あんたは違う。あんたはとびきりのいい奴だ、それに顔もいい」ルディはウィンクを寄越した。
「ああ、お前もだルディ。感謝してるよ。あんたは本当にいい奴だ」二人は顔を見合わせて笑った。「いい奴だが、相当なクレイジーだ」
「おいおい酷いな、『いい奴』に向かって。僕に言わせれば、みんな自虐的に我慢強いだけさ」そう言うルディを、レイは横目で見ながら皮肉混じりに笑った。
「やっぱりクレイジーだ」
「僕がクレイジーなら、レイ、お前もさ。──もう片足切ったのか」
 二人は刃元が骨に当たる音と、アパートのどこからか漏れ続けるベース音に合わせて即興の唄をうたった。


 町外れの小さなアパートは、四○五号室の玄関に大きめのトランクが置かれている以外にはいつもと何一つ変わりがなかった。トランクの中には血で汚れた女の衣類や凶器、それとすっかり小さくなった彼女自身が、パーツごとに新聞紙にくるまれて詰め込まれていた。その作業のほとんどは、先に担当部位を解体し終えたレイが請け負った。
「じゃあ、僕は先にいく」指紋を拭き取る作業を終えたところでルディが言った(もっとも彼には拭き取るべき指紋はほとんど残していなかった)。
「どうして? 一緒に行くんじゃないのか?」
「考えてもみろ。婆さんは大概早起きだ。いくらボケ老人でも、死体を焼いている最中にギャーギャー騒がれては困るからな。先に行って様子を見て来る。三十分程したら、あの家へ向かってくれ。さっきの草むらで落ち合おう。まあ、もし起きていたら……その時はなるべく早めに戻ってくるよ」一人になるのは不安だったが、引き止める理由の見つからなかったレイは仕方なく承諾した。
 ルディは玄関にしゃがみ込み、作業中脱いでいたブーツを履き直しながら言った。
「見落としがないかもう一度確認しとけよ。ああそうだ、足跡も綺麗に拭いた方がいいんじゃないかな」
「それもそうだな。わかった。じゃあ、三十分後に」力なく手を振るレイを、ルディはにっこり笑って振り返った。
「そんな顔をするな。全て上手くいく。すべて、君の望む通りにな。僕を信じろ……」
「ああ、ありがとう」レイはもう一度手を振って握手を求めたが、ルディは既に玄関を出てアパートの階段を小走りに降りていくところだった。
 すっかり部屋を片付けると、レイはトランクの上に腰掛けて煙草に火をつけた。部屋には何一つ証拠は残っていなかった。リズとの想い出も、リズが若い男を次々に引っ張り込んでは手込めにしていた様子も、何度も消毒した手の汚れと一緒に一つ残らず消えてしまっていた。レイはほっと肩を下ろし、自分の尻に敷かれたトランクを眺めた。
「…………リズ、お前が悪いんだぜ」


 三十分は意外に長かったが、ほんの数時間前の焦燥は嘘のように消えていた。まるで夢でも見ていたかのようだ。ひょっとすると、全て夢だったで片付くのかもしれない。そんなことを考えながら表に出たレイに、一つ計算外の問題が発生した。
 人間一人詰め込んだトランクが重すぎた。まだ夜明け前の路地には人が来るような気配はなかったが、かえってこの静けさの中ではトランクを引きずる音が目立ち過ぎる。やっぱり無理にでも引き止めるか、一緒に行くべきだったのだ……。
 お人良しのレイはこんな夜更けに声を掛けられるなんて思いもしなかったし、死人を入れたトランクがこれ程重いとも知らなかった。
「そこで何をしてる?」
 一気に血の気が引いた。一瞬自分の耳を疑い、それからやっと動悸が早くなり、たっぷり一秒後にどっと嫌な汗が吹き出した。レイに声を掛けた男は、後方からもう一度同じことを訊ねた。「そこで何をしているんだ?」
 レイが首から上だけでおそるおそる振り返ると、そこには若い男が立っていた。レイの目は保安官のバッジに釘付けになった。
 保安官補になったばかりのブラッド・ジョンストンは正義感に燃えていた。深夜の人気のないスラムで、不似合いなトランクを引きずる男。犯罪の匂いだ。ブラッドの直感はレイの顔を見た瞬間、確信に変わった。
「三度目だ。そこで何を……いや、何をしようとしていた?」
「あの、りょ、旅行っていうか……ただの、旅行者なんです。な、なかなかホテルが見つからなくて」
 取り繕うと思えば思う程しどろもどろになり、気を抜けば足が震えそうだった。その様子を不信に思ったブラッドは、さらにレイに詰め寄った。ドラッグか何かの売人だろうと思っていた。
「荷物をあらためさせてもらう」
「頼む、待ってよ、困るんだ」レイは慌ててトランクを自分の後ろに隠した。その時角が地面にぶつかって、ガツッと物凄い音──レイの鼓膜をぶち破るような音を立てた。レイは飛び跳ねた。
「きっ、汚いし、見られたくないもの……その、恥ずかしいものとかが入ってるんだよ。わかるだろ?」
「気にすることはない。法に触れていなければ、俺は人の趣味にあれこれ言うような不粋な男じゃない。その後でゆっくりホテルを案内しよう。この辺にゃ立派な宿はないがね」ブラッドの左手がレイの持つトランクに伸びた。右手は尻の拳銃にかけられた。
「いえ、本当に、あの……」レイの足はとうとう理性の管轄を離れ、ブルブルと震えた。ブラッドは拳銃に手をかけたまま、レイを振り切ってトランクを奪い──
「うわっ!」
 レイは掛け金を外そうと前屈みになったブラッドの後頭部を、力任せに殴った。
 トランクを奪い返し、全力疾走する。行くあても逃げ切れる自信もないままに、闇に向かって走った。自分でも信じられないくらい早く足は地面を蹴り、トランクは信じられない程軽かった。そして信じたくはないが、ブラッドはふらつきながらも自分を追って来ていた。
「止まれ! 撃つぞ!」
 言うが早いか、ブラッドは威嚇発砲をした。放たれた弾は地面に当たって火花を飛ばしたが、そんなものはレイにはまるで見えていなかった。彼の目からは止めどなく涙が溢れ、何も見ることが出来なかった。
 二発目は正確にレイの左足を捉えた。熱いと思った瞬間、体はアスファルトに倒れ込んでいた。手から離れたトランクは、二、三回回転して、バチンという音とともに真っ二つに開かれた。
「痛い、痛い、助けてルディ!」
 遅れて追いついたブラッドは、辺りに散乱した『旅行の荷物』を見て顔面蒼白になった。


<4>

 殺人、死体損壊、遺棄の容疑者レイモンド・ブラウンの顔色は、前日にもまして酷いものだった。昨日から一睡もしていないし、飯も喉を通らない。
 レイは後ろ手で掛けられた手錠とパイプ椅子を紐で繋がれ、紐の尖端には胸を張ったブラッドが立っていた。今度こそどこにも逃げられなかったし、そもそも最初から逃げられるはずがないと諦めかけたはずだったのだ。それでもレイにとって、今のこの状態はあまりにも悲惨で惨めだった。それに、撃たれた左足が痛んで仕方なかった。
「だから、何度も言ってる。確かに俺はあいつを……リズを拳銃で撃った。それは認めるよ。けど、まさかあんな酷いことをするつもりはなかったんだ。すぐに自首しようと思ってた。けれど、ルディに……ルディが俺をそそのかして、死体を切って焼いてしまおうって言ったんだ」
 レイは夕べから何度も同じ話をさせられて、うんざりしていた。何が幸せだ。何が俺を信じろ、だ。計画は最初から穴だらけでこうなることはわかりきっていたのに、どうして昨日はあれ程迷いのない気持ちになれたのだろう……第一あいつは俺を裏切って、どこへ消えてしまったんだ──話す度に、自分が生け贄の子羊のように哀れに思えて仕方がなかった。
「ルディは言っていた、俺は確かに聞いたんだ。あの焼却炉で今まで三十二人を殺して焼いた、って」
「だから何度も言ってるだろう。お前の言う通り今朝その焼却炉を調べたが、何の変哲もない焼却炉だった。人の骨どころか、ゴミを焼いた以外何の痕跡も出なかったそうだ」
 取り調べにあたった保安官は、一向に進まないやりとりにうんざりしていた。容疑者には動機も証拠も凶器まで揃っていた上、下手な隠蔽工作の後も確認された。焼き捨てるはずだった手袋にはべったりとこいつの指紋がついていたし、足跡一つないアパートがあるもんか。残るは弾丸と薬莢の行方だが、それがなくとも充分有罪に出来る要素にあふれている。もうこれ以上追求することなど何もないのに、何でこいつは食い下がるんだろう……静かで退屈な田舎町で突如起こった猟奇殺人事件に、うんざりしきっていた。
 一方で保安官補のブラッドは、自分の手柄をさらに実のあるものにしようとやる気をみなぎらせていた。
「おい、お前は昨日からルディルディ言ってばかりいるが、第一そのルディって男は誰なんだ? まさか、まったく知らない男に言われてその通りにしたってわけじゃないだろう?」
 ブラッドに言われ、哀れなレイは言葉につまりぐっと俯いたが、急に閃いて顔を上げた。
「アスティン……そうだ、思い出した! 奴は確かにルディ・アスティンと言っていた! 地元なんだろ? そいつをまずここに捕まえて来てくれ! 話はそれからだ!」
 保安官達はその名を聞いて顔を見合わせ、一様に怪訝そうな顔をした。
「何がおかしいんだ……?」レイはとうとう繋がれた椅子ごと立ち上がろうとして、後ろに控えていたブラッドに取り押さえられた。保安官は含み笑いをして立ち上がると、書棚から一冊のファイルを取り出し、パラパラと捲ったページをレイの目の前に突き出した。
「お前の言っているルディ・アスティンとは、この男のことか?」
「ああ……そうだ、こいつだ! ちょっと写真とは見た感じが違うが……確かにこいつだよ。ルディだよ」
 書類に貼られた写真には、にっこりと微笑んだ顔をさらに崩したような、不気味な笑顔のルディが映っていた。
「おまえがルディのことをどこで知ったかはしらんが、俺達はよく知っているんだ」
「じゃあ早くしょっぴいてきてくれよ!」
「続きを聞けよ。あのなあ、こいつはこの辺りじゃ有名な白痴者なんだよ。まともな会話すら出来やしない。知能テストの結果では……何だったかな、ブラッド?」
「五才児程度、と記されていますね。僕は彼と同じ地区の生まれで小さい頃から奴を知ってますが、確かに奴はバカだった。けれど僕は彼を邪見にしたことなんて、一度もありませんよ」書類を覗き込んだブラッドが誇らし気に言った。
「そうだ、その程度のオツムだ。確かにルディには善悪の判断が曖昧なところがあって、小さな悪さ……飴を盗んだり子どもを泣かせたりのことでここの厄介になったことはあった。だがなブラウン、人を殺して、さらに死体隠蔽を企てるなんてまねごとは、天地がひっくり返っても出来ない!」保安官は睨みをきかせ、ついでに机をバンと一つ叩いた。
「う、そだろ……違う! 俺の会ったのはこのルディじゃないんだ、ふ、双児の兄とか……そうだ、頭が、な、治ったんだよ突然、そうだよきっと!」レイが興奮してまくしたてたので、彼はブラッドの手によって椅子もろとも床に押さえ付けられる羽目になった。ブーツの底で傷口を踏まれ、思わず叫んだ。「ああ、畜生! 離せ! とにかくルディを、ルディを連れてこい!」
「残念だがそれは無理だ。天地が三度ひっくり返ってもな」
「どういうことだ?!」
「ルディは三年前に死んでるんだ。正確には海で溺れて行方不明だが。そうだったな、ブラッド?」
「ええ、確かにそう書いてありますね」ブラッドはレイを押さえ付けたまま、片手でファイルの表紙を見せた。そこには死亡者リスト、と書かれていた。
「嘘だ……みんな騙されてるんだ…………全部仕組まれたことなんだ…………俺は幸せになれるって、言ったじゃないか、ルディ……?」
 レイは椅子ごと仰向けになり、天井を見上げる格好になった。白々しい蛍光灯が見えた。窓の外の青空に鳥が浮かんでいた。自慢だった形の良い鼻の頭が見えた。そして全てが涙の中に歪んだ。
 彼は奈落の底から、見えない眼で天を見上げた。
 そこにあったのは、ルディに対しての怒りと憤り、それだけだ。その時唐突に自分の感情に気がついた。
 なんということか、罪悪感がない。一生消えることがないと思っていた「人を殺した」というレッテルが、実感が、いつの間にか、それこそ最初から存在しなかったかのように消え去っていたのだ。
(そうか……そうかルディ、お前の言っていたことはこういうことだったのか。わかったよ)
 レイは泣きながら笑って、静かに瞼を閉じた。そこには怒りすら消え、とうとう何一つなくなってしまった空の世界があるだけだ。

「さて、君にはさらにもう一つの容疑がかけられている」
 もはや何の反応も示さないレイに、保安官はため息をつき、うんざりしきった顔でなげやりにつぶやいた。
「ミズ・ジュディ・アスティンの失踪についてだ。バラバラ殺人に比べれば、取るに足りない事件だが……」

(C) Nano Sasaki. 1999-2023