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『Piece1 前触れ』2005-02-23

※小説未満のおはなしのかけら。覚え書き的なもんです。

 最初はただ怯えるしかなかった。彼の機嫌を損ねないよう、愛想を振りまくことに骨を折ったが、それも無駄だと悟ると今度は彼を無視した。無関心と不干渉、それはまったく逆効果だった。当時のジューズゥの暴れぶりを思い出すと、チュビックは今でも背筋がぞっとする。その悪寒は皮肉にも以後のチュビックにいっそうの我慢をもたらした──あの時よりはマシなんだから。結局最終的には、ジューズゥを夫でも、一人の男性でもなく単なるビジネスの相手だと思うことにした。自分と相手、両方の自我を殺しビジネスライクに徹することで幾分かは遣り過ごせた。だがそれも長くは続かなかった──合計してたったの二十年──彼女は多くのものを、とりわけ彼女の若い時間を下水に捨ててしまったことをある日突然知った。脱衣所の鏡の中にいる、日に日に削げて変わり果ててしまった自分とは思えないものをみとめて。
 結婚相手の本質を見極められなかったことは若気の至りだったとしても、彼女の取るべき正しい選択は、一番最初に頬を殴られた時に、すぐさま弁護士のもとへ行くことだった。だがもう遅かった。無くしたものは二度と手に入らないものばかりだ。
 彼女は若くはなかったが、もう無知な少女ではないのだ。無くしたお気に入りのイヤリングを未練がましく思っていた頃とは違う。彼女は職を探すことからはじめた。独身時代の看護婦資格が大いに役にたったし、社会生活は彼女の失いかけていた自信をあっという間に取り戻させた。今、チュビックは自立可能な女性であり逞しさを備えた母親だった。そう母親なのだ。一人息子のコリンが彼女に与えた多くのものの中で、もっとも役に立つプレゼントだった。

 ジューズゥは庭の一角に九十年式のピックアップを止め、汗とハンドルにこびりついた脂で汚れた手の平を作業着の脇で拭ってから、昨日やったのと同じく何千回となく見上げた我が家を見渡した。買った時からしなびたボロ家、オレの家。ドアの蝶番は錆きって開閉のたびにギイギイやかましい音をたてるし、年中吹き続ける風が砂漠の砂を運んでくるせいか、壁は黄ばんで埃っぽかった。そこかしこから嗅ぎ慣れた田舎の匂いがした。唯一の利点は隣家が両隣りとも一ブロック離れていて、プライバシーが保たれていることだけだ。
 運転の下手なチュビックがいつもドライブウェイをはみ出して何度も切り返すので、コンクリート製のポーチの端にヒビがいっている。週末に修理をしなくては──いや、どうせ直したってすぐに駄目になる。困るのはあいつで、オレじゃない。彼は溜め息をつくと、わざとらしくコンクリの欠片を蹴飛ばした。
 自分で鍵を開けてまっすぐにキッチンに向かった。出迎えはなかったが、さして気にはしなかった。ビールを飲んで、それからだ。チュビックに文句を言うのは。彼は冷蔵庫から冷えたビール瓶を持ち出し、水きり桶にあったコップを一つとるとリビングまでやってきた。チュビックは居間の端に所在なくぽつりとおかれたスツールに腰掛けていた。もう夜だというのにきちんとスーツ──ジューズゥの一番嫌いな短いスカートと派手な赤色の──を着込んでいる。くそっ、嫌な女だ。
 彼女は夫の姿を一瞥すると、おかえりも言わず、かわりに低い声で「出て行くわ」と言った。
 あまりに唐突のことに思えて、ジューズゥはピールとコップを腕に抱えたまま立ち尽くして目をしばたいた。なんだって? この家から、オレの家から、出て行く、だって? しばらくの沈黙のあとで出て来た言葉はたった一言だった。
「コリンは渡さん」
 予想通りの答。チュビックは浅く腰掛けたままわからない程小さく溜息をついた。妻にはどうであれ、彼が父親の名に恥じない愛情をコリンに注いでいることはチュビックにもよくわかっていた。だがそれとこれとは違う──コリンはチュビックにとっても最愛の一人息子なのだ。
 ジューズゥが暴力を振るうのは妻に対してだけで、それもきまってコリンが寝付いてからだった。
 今年で十二歳になるコリン、ブロンドの巻き毛と小さな顎のいまだ少年のコリン──そう言えばコリンが居ない、まだ眠る時間ではないのに。二階にある部屋の明かりもついていなかった──クソッ、ジューズゥは心の中で唾を吐いた。チュビックはとっくにコリンを家から出したのだ、おそらく養父母の家へ。
「残念ながら法律はそうは言わないでしょうね。私は母親で、職業と収入がある」
 彼女が自信たっぷりにそういうのを見て、鼻頭を殴って潰してでも止めるべきだった、と彼は後悔した。あの時、妻がもう一度働きたいと言った時、いつにもまして彼女が強情だったことを思い出したのだ。三日間腫れがひかない程頬を張られても、チュビックは退かなかった。
「それに私には酒癖の悪さもないし、何より配偶者を殴ることもない」ジューズゥの眉がびくっと痙攣した。「忘れているならお見せしてよ。お望みなら。私があなたに殴られたという医師の診断書がたんまりとあるわ。あなた知らなかったでしょう? なにか言い分があるなら、来週離婚調停でお会いしましょう。通知がいくはずだから」
「ば、ばかをい、言え」
 ジューズゥはどもって一旦言葉を切った。彼の手が、煩わしいもめ事に対して一番卑劣な解決方法を使おうとする徴候だ。
「か、片親なんてこ、コリンのた──」
「ストップ!」あくまでもひんやりとしていたチュビックの言葉が急に熱を帯び、ジューズゥは一瞬怖じ気付いた。
「私のため、コリンのため、他の人のため……そんなの言い訳よ。あなたはいつも誰某のためだなんて言って、結局自分のいいたいことを言ってるだけなのよ。本当に誰かのためを思って行動したことなんて、ただの一度もないくせに」
 チュビックは、今では新婚当初は多少は好いていたはずの夫の何もかもが嫌いだったが、なかでもジューズゥの説教が大嫌いだった。お前のために言うんだぞという口癖を聞くたびに耳をむしり取りたくなった。
 今夜彼の帰宅をわざわざ待っていたのは最後の情けのつもりだったが、狼狽する夫を見るうちに彼女の中の嗜虐心がむくむくと頭をもたげはじめた。時は来た、虐げられてきた気持ちをぶつけてやれ! 今こそ、今こそ、今こそ!
「なんだと?」最初の驚きからようやく立ち直ったジューズゥの大きな鼻がさらに一周り膨れ上がる。「いつオレがそんなことをした」
「あら、自分でわかっていないの? ならなおさらタチが悪いわね」チュビックは挑発するように嘲笑しながらも、彼の乱暴な手の届かない位置にまで後ずさった。「あなたは昨日もこう言ったのよ。もう忘れているかもしれないけれど、きっと言いたいことを言ったらそれで満足なんでしょうからね。教えてあげるわ。『そんな背中の開いた服を着て息子が見たらどう思う、近所の連中はなんていう? コリンやお前のためを思って言ってるんだぞ』とね」
 ジューズゥは急激に怒りが込み上がってくるのを、ソファに腰掛けることで何とか押さえようとした。妻の口応えが気に入らなかった。これが昨日なら、彼女は態度で応戦していたはずだ。沈黙という盾で。自分の口調を真似している様子も鼻に付いた。彼女の小馬鹿にしたような態度も、人妻らしくない露出度の高いドレスも、何からなにまで気に喰わない。何しろ妻には普段から人を見下すところがある、と少なくともジューズゥ自身には感じられた。彼のか弱い自尊心と南部出身者の劣等感には、彼女の媚びへつらいも無関心もあの何の期待も抱いていないとでもいうような視線もチクチクと肌をさす嫌な刺激だった。時折それが押さえられなくなって、いつもは彼に突き刺さっている小さな痛みのベクトルが逆向きに働き暴力沙汰を起こす──ということを彼以外の全ての周りの人々はわかっていた。彼の暴力がただの虚栄だということを本人が認められたならば、きっと事態はここまで悪化しなかっただろうに──だがもう遅いし、チュビックが諦めたようにはじめから無理な話だった。
「そんなこと」膝の上においた拳の中で、人さし指が震え出した。「そんなどうでもいいこと」
「そう、どうでもいいつまらないことよ。別にドレスのことを根に持っているんじゃない。そんなことすらあなたは誰かに……私やコリンに言責を押し付ける、私はそれが気に入らない。あなたはいつもそう、ために、ために、ためを思って。そうすれば言いづらいことを言った自分の良心が痛まずにすむのかしら? 利己的だと思われたくないから? あなたの面子が保つのかしら、それとも保たれているのは虚栄心? 言いたいことがあるなら堂々とおっしゃったらいいじゃない、今の私のように」
 チュビックは完全に引き際を誤った。それがわからない程自分が激昂していることに、大胆な自分に酔っていることに、そして彼の乱暴な部分は腕それ自体ではないことを思い出すにはもう時間がなかった。
「それとも私にもこう言ってほしい? ジューズゥ、あなたのためを思って言ってるのよ」
「黙れ、くそったれ!」
 チュビックは目の前が一瞬光ったのを感じた。額を、頬を、ぬめぬめする液体が流れるのを感じ、耳がカッと熱くなった。足下でガラスの爆発する音がして、ジューズゥがビール瓶を投げつけたこと、自分が飛んで来た瓶を避けきれなかったことを知った。不思議と痛いとは思わなかった。コリンの可愛い笑顔が浮かんだ。フローリングの床にくず折れる一瞬のうちに考えられることはそう多くはなかった。
「くそったれが!」
 ジューズゥは放り出した右手を握りしめ、もう一度悪態をついた。
 興奮物質が身体を一周し終えると、彼はとたんに怖くなった。倒れ込んだチュビックからぎょっとする程血が出ている。直系一メートル程の円になった赤い水たまりの中でスーツはその色を増し、もみくちゃになったブロンドから見える首筋がびくんびくんとひきつけを起こしている。ジューズゥは思わず目を逸らした。
「おい」反応はない。「おいったら、くそ」
 彼はチュビックから少し離れた場所で青くなったり赤くなったりしたのち、恐る恐る覗き込むと、血溜まりの中で炭酸の泡が弾けていた。そのほとんどはビールだった。無意識のうちに止めていた息を吐き出すと、血が付かないよう注意しながらうつ伏せになった妻の顔を持ち上げた。額は二倍にも膨れ上がり、青と赤のまだら模様の間から流れる血はまだ止まりそうにない。瓶の破片は鋭利なナイフよりもずたずたに彼女の額を裂いていた。そして弱々しいながらも脈はあった。
 まだ息がある。だが放っておけば死ぬだろう。オレはそのどちらにホッとしたのだろう──ジューズゥはソファの後ろ手のキャビネットに置かれた電話の受話器を上げプッシュボタンを押そうとしたが、指が震えて上手く行かなかった。
 ちくしょう!──深呼吸をするため目を瞑った。後悔だらけだ、本当にいいことなんて一つもありやしなかった。なんて酷い女だ。ビッチめ、くそ、何でオレはこんな女と結婚して、こんな女のために前科を作って、こんな女を助けるためにレスキューを呼ばなきゃならないんだろう。チュビックのために!
 ジューズゥは深く吸った息を吐いた。大したことはないはずだ、大した罪では……ちょっと行き過ぎた夫婦喧嘩だ。いい弁護士さえ雇えれば示談で済むかも……いやこいつはそうはさせまい、だが長くても数カ月ぶち込まれるだけで済むだろう。
 しかしコリンだけは手放すことになるだろう、決定的に。
「コリンは渡さん」
 そうだ、コリンだけは──ジューズゥは受話器を置いた。自分のために。もう指は震えてはいなかった。


 このあとコリンを連れてピックアップでの逃避行の旅がはじまったらいいのになあというところで了。

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