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『震える唇』2001-08-31

※「僕」は、キスをすることを異常に恐れていた。その原因となった過去の出来事から、現在に至るまで。くどい。

 僕はキスをするのが怖い。
 あの、頬にかかる鼻息、ぼってりと湿った唇やぬめぬめとした舌の感触、粘液を落としながら歯列を這うナメクジのような舌先、ざらついた口内……それら全てに嫌悪した。恐怖さえ感じた。
 かと言って、僕が行き過ぎた潔癖症だったかというと、そうでもない。その先の、もっと生々しく俗っぽい行為には何の抵抗も感じず、むしろ人並みの快感をともなうものであったし、口と口を合わすことさえなければ、僕はただの、健全な一般男子に過ぎないのだが、あのキスという行為だけはどうしても拒絶反応を示してしまう。
 そういう、ある種病的な癖があるためか(勿論、それだけが原因ではないのだろうが、大抵の場合直接的な破局の原因はこれだった)、僕の恋愛は長く続かない。最初、相手の女性は僕がキスを躊躇するのを見て「まあ可愛い」とぐらいにしか思わず、関係を持った女性のなかには、年下の初心な異性を弄んでやりたいという、ある種の悪女的な嗜虐嗜好によって重宝がられることもあったものだが、そのうち本格的に、真剣に僕が嫌がっているのに気がつくと、興ざめしたり愛情を感じないとか何トカ言って、皆僕から離れていくのだった。精一杯愛嬌と色香を振りまこうとしている顔のすぐ側で、眉間に皺を寄せ歯を食いしばられては、どんな善人でも腹立たしくなるだろう。
 無論、僕に彼女達への愛情がないのではない。僕がこういう体になってしまったのは、思い出すのも忌まわしい、過去の経験が関係してくるのだ。


 それについて話すのは、凄ましい嫌悪感があるし、同時にひた隠しにしてきた恥部を晒け出すことにもなるのだが──いや、まずは諸君に僕の身の上話を聞いて貰おう。その上で、僕自身が未だ決着のつかない疑問を、君達が変わりに答えてくれれば幸いである。
 僕がキスが出来なくなった原因──それは僕の幼少期にまで遡らねばならない。僕はある片田舎の町に生まれた。父親は、僕が八歳の時に病死した。どんな病気だったかも覚えていないし、それについて今更悲しいとか、不幸だったなどとはこれっぽちも感じないのだが、父の死が、僕と母との異常な生活のきっかけになったかと思うと、少々うらめしい気分にもなる。で、その異常な生活について、僕は恥ずかしさと気持ち悪さに耐え、ここに話さなければなるまい。それこそが、僕のこの禍々しい性癖の元凶そのものなのだから。
 父が死に、母は頼るべき親戚も親しい友人もおらず、たった一人の幼い子どもを抱え途方にくれた。そういった寂しさからか、それとも元来病的な因子があったのか、彼女は僕が中学に入った頃から、僕を子どもとしてではなく、一人の異性として意識するようになったのだ。それは最初、僕の単なる気のせいだと思っていた。妙に艶っぽく感じる視線も、時折向けられるニタニタとした厭らしい笑みも、僕が性的なものに興味を持つ年頃になったからそんな馬鹿げた妄想を抱くのだ、自分が悪いのだ、と自身に言い聞かせていた。
 それが、けして気のせいなどではない、とはっきりしたのは、十四歳になったばかりの夏の夜のことだった。寝付きのすこぶる良い僕は、布団を被ってものの五分で眠りについたのだったが、床についてから数時間が過ぎたと思われる頃、ふと顔面にかかる暑苦しい空気のうっとうしさに、朦朧とした夢の世界から現実に引き戻された。もしかすると幽霊の類なのではないかしら? と、体を硬直させたまま恐る恐る薄目を開ける。すると、確かに仰向けになった自分のすぐ側に、温かな生き物の気配を感じるのだ。最初は暗闇でぼんやりとしか見えなかった生き物の影は、目が慣れてくると次第に輪郭がはっきりしてきて、やっと正体がわかった時には、僕は思わずひゃっと叫び出してしまう程驚いた。それはでっぷりと肥え太った、四十を越える僕の母親だったのだ。
 ああ、僕はその時ほど恐ろしかったことはない。鼻先が触れるほど近くから、ふー、ふーっと頬になま暖かい風がかかる度、僕は全身に脂っこい汗を滲ませた。そうして母の分厚い舌は──僕は随分とねちっこい書き方するが、それはけして大袈裟なのではない──僕の顔中を泡っぽい唾液で濡らし、恐怖のあまりギュッと閉じられた瞼を吸い、うねうねと唇をなぞった。僕の唇の隙間を、無理矢理こじ開けて侵入を始めるその舌は、川原の岩影なんかに潜む、うぞうぞとした不気味な虫けらのように思えた。
 僕はあまりの事に白痴のように放心し、さらには、次第に荒く不規則になる母の鼻息が、普段は感ぜられない体臭が、蒸し暑い空気をさらにムッとさせる肥満者の体温が、全てが僕を恐怖に陥れ、けだものと化した母親をはねのけるだけの気力を失わせた。
「これは夢だ、これは夢だ、これは夢だ」
 意識が遠のきそうになる頭の中で、何度も繰り返す。しかし僕の唇を行き来するそれは、明らかに現実のものであった(ただ、翌朝の彼女の態度は、あれは本当に夢だったのかしらと疑わせるほど、あっけらかんとしていた。だが全身で平常を装う母の目に、より一層淫靡な輝きが増していたのを、僕は見逃さなかった)。結局、母の異常な行為は十分かそこらの間続けられたのだが、僕には無限を織りなすループのように、永遠の時間に感ぜられた。

 母の行為は、顔中をベトベトにする激しいキスのみで、男女の一線こそ越えなかったものの(もしも最後まで事が運ばれていたなら、僕は世の女性全てを嫌悪し、同性愛にでも走っていたことだろう)、僕が高校を卒業し就職先を見つけ家を出るまで、実に五年弱の間、毎夜毎夜続けられたのだった。
 何故その間、僕は母を叱咤し罵声の言葉を浴びせなかったか、もしくは家を飛び出さなかったのか。諸君は当然の如く疑問に思うだろう。僕自身、あの最初の夜に母をはねのけていれば……一夜の悪夢に終わっていれば、どんなにか良かったことだろうと思う。だがしかし、僕の心のうちは母を強烈に嫌悪する一方で、苦しい家計の中で何とか僕に学校に通わせようと必死に働くその姿に深い感謝をしていたし、深夜の行為や厭らしい視線、笑みを除けば、それは立派な賢母ぶりであったのだから(まるきりジーキルとハイドがいっぺんに現れたかのように)、勿論異性としての愛情は一欠片も無かったのだけれど、どうしても母を詰ることが出来なかった。それだけではない。僕の憔悴しきった思考力が、このまま母の呪縛から逃れられないような、諦めの気持ちを生み出させていたことも、僕を家出する勇気から遠ざけさせていた一番の要因だった──つまり恐ろしかったのである。
 男性諸君はお分かり頂けるだろう。健康な男子であれば、肉親、ことに母親に対する性的な妄想は、ちらと考えただけで吐き気を覚える類のものだということを。それが僕の場合現実となってこの身にのしかかるのだから、母のキスがどれだけ僕を痛めつけたか、そして僕の正常な判断力を鈍らせたかは、案外容易に想像しえるのではないか。
 だからこそ僕は、もしかしてこれは精神的な治療可能の病気──例えば昨今流行りの多重人格のような──なのではないか? もしくは、母は僕自身に異性への愛情、近親相姦的なそれを抱いているのではなく、単に身体的な欲求から、世の女性が良く言うところの「寂しさのあまり」に犯した罪なのではないか? そうも考えていた。むしろ、そうであってくれと願っていた。いずれにせよ狂気の沙汰だけれども、そう考えたほうが幾分か気も休まるのだ。

 そのような経緯から、僕は、母の唇から物理的に離れた今でも、誰ともキスの出来ない体となってしまったのだ。どんな美女が相手だろうと、顔を寄せた途端に、母の脂ぎった醜い顔──落ちた頬。深く刻まれた笑い皺。動物のように黒目だけが覗く、腫れぼったい細められた瞳。最大限に引っ込めた僕の舌を、執拗に追いかけるハイエナの舌──それらがワッと目の前に、さも実際に存在するかのようにフラッシュバックする。びっくりして目をつぶれば、今度は瞼の裏に母の顔が現れ、感覚だけとなった美女の唇は、一層薄気味悪い母親のそれに感ぜられるのだ。母の呪縛は未だ僕を苦しめるのだった。
 多分、僕が本当に心地よいキスが出来るようになるのは、母が僕に対し罪を認め、謝罪し、僕自身が母を許せたその時なのだろう。僕に母が許せるか──しかし、許せる日が来るその前に、母はあっけなく逝ってしまったのだった。


 母が病床についているとの連絡があったのは、今からほんの二ヶ月前だ。もう十年近くも音信不通だった母が、突然手紙をよこしたのである。便箋には、弱々しい字で、自分がもう長くない病気であることが綴られており、それから、一目でいいから僕に会いたいとも書いてあった。だが、あの地獄絵図の五年間については、全く触れられていなかった。それについて僕は何故かホッとし、また一方で耐え難い憎悪をも抱くのであった。
 僕が死にかけの母に会いに行くことを躊躇したのは、それだけの理由ではない。
「どうしてあなたは、僕にあんなことをしたのですか?」
 あの十四の夜から、ずっとずっと聞きたかった疑問を、僕はついに口にしてしまうかもしれないからなのだ。
「あら、あんなことっていったい何かしら?」
 そんな風に素っとぼけられれば、どれだけましか。いっそのこと、ボケっちまえばいいのに! そんな事まで思うのは、僕が最も耳にしたくない、母の告白を恐れているからなのだ──愛の告白。ああ、実の母親からの真剣な愛。それほど僕を狂気に導くものはない。
 憎い憎い憎い憎い憎い、けれども、賢母であってくれやと、どうか正常なる一人の母親でいてくれやと、憎しみの中のほんの少しの希望で、僕はようやく狂気の世界から逃れていられるのだ。その押さえつけの反動として、僕のキス恐怖症があるのではないか。

 ともかく僕は散々悩んだすえ、結局、出て来たきりになっていた、片田舎の町にある実家を訊ねた。そして、当時よりも見窄らしくなったアパートのドアを開くと、そこには寒々とした陰気な空気と、布団の上に横たわった黄色い棒切れとがポツリ、小さくなっていた。
「母さん」
 呼びかけに、棒はつぶっていた瞼をゆるりと開けた。濁りきった白目には似つかわしくないほど澄んだ黒目に、僕の姿が映った時、棒切れは
「……おお、おお、純一、純ちゃんかい? 来てくれたのね、おお、おお」
と僕の名を呼んだ。
 この無惨に痩せ細った枝のような塊が、本当にあの母なのだろうか? 僕はにわかには信じられなかった。布団の上の棒切れは、紛れもなく僕の母親だったのだ。病気のせいか、はたまた十年のうちに段々と衰えていったのか、あのでぶでぶと太った母は、辛うじて面影だけは残すものの、目を背けたくなる程痩せ、野太かった声も枯れ果ててしまっていた。僕は、何だかやりきれない心持ちになり、そっと視線をそらせた。
(これが僕が憎んでいた母なのか? こんな哀れな塊が──)
 彼女は、まだ微かながら生命活動を続けている、一己の人間であった。しかしそれは、ちょいと衝撃でも与えてやれば、すぐにでも死んでしまうような、本当に弱々しい塊だった。
 僕は同情心とでも言うべきか、先程までとは全く正反対の、妙な感情に戸惑っていた。ここで母が五年の日々について謝罪すれば、僕は微笑んで、許してしまうような気がした。
 だが、哀れな母が渾身の力を振り絞って僕の手を取り、さもいとおしそうに自らの頬に撫でつけた瞬間、僕の中に一瞬間隠れていた憎しみが、苦しみが、ワッと立ち上がる炎のように蘇り、二倍にも三倍にも勢いを増して溢れ返った。僕は、自分でもそれがはっきりとわかるほど、下唇をぶるぶると震わせながら言った。
「どうして僕にあんなことをしたのですか」
 一息に言い終えると、頬ずりをしていた母の目が、当時のままの黒目だけの目に変わった。ひからびて黄土色になった皮膚の上で、その瞳だけは、ぞっとするほど動物の生臭さを匂わせていた。
「何故、あんな──実の子に手をかけるようなことを」
 僕は、さらに詰め寄った。言うべきではないと思っていた言葉は、僕の震える唇から呻きとなって洩れていた。ああ母よ、あなたは何故あんなことをした? 病の虫か、気の迷いか、それとも──
「母さんはね、あんたをね、愛してたの。好いていたのよ」
 母は薄くなった唇を噛みしめ、衰えた声帯からひゅーと空気を漏らしつつ、絞り出すように叫んだ。それは、僕の一番聞きたくなかった言葉であった。それでも母は、恐るべき執着で僕の膝にすり寄り、
「お願い、最期にね、最期にね、一度でいいから純ちゃんからキスして頂戴」
と、僕に懇願をした。しかし僕は、縋りつく手を邪険に振り解き、それでもなお僕を見上げる母の顔を、ぎっと睨み付けた。
「おお……」
 乾いた唇が落胆を呻き、皺だらけの顔が悲痛に歪むのを、僕はただ睨み続けるのだった。
「愛している、愛しているのに……」
 母は、最後には聞き取れないほど小さな声で「愛している」と呟きながら、無念のまま死んだ。その乾いた目の際には、たっぷりと涙の粒が乗っていた。

 ただただ、母の遺体を眺めて座り続ける。その間僕の心に生まれたのは、想像していたような狂気ではなく、奇妙な、僕自身どう説明していいのかわからない、胸の悪さだけであった。

 母が基督教信者だったことを知ったのは、それから暫くして、枕元に置かれた聖書を見つけた時だった(その後の質素な葬儀も教会で行われ、母の遺骨は教会内の共同墓地の片隅に埋葬された。そこで、母は僕が出ていってからすぐ基督教に入信し、死の三年程前からは毎週足繁く教会へと通う、熱心な信者であったことを聞いた)。それを手にとって、パラパラとページをめくりながら、僕は基督教に傾倒した母の思惑を考えていた。それは、母の僕に対する懺悔であったともとれた。だが、彼女が死に際に僕に告げたのは、懺悔でも、謝罪でもなく、愛の言葉だったのだ。基督教は、近親相姦行為を固く禁じているはずだ、それにも関わらず──Jesus Christは、それでも僕に母を許せと言うのか。全てを許せと、愛せというのか。
 救世主は答えない。僕は、僕自身に疑問をぶつけた。
「僕は、母の最期の望みに答えてやるべきだったのだろうか?」
 母の今際の際の願いを拒んだことで、悲痛のうちに死なせたことで、僕の憎しみや復讐心は満たされ浄化されたか──いや、僕に残されたのは、如何ともしがたい後味の悪さだけだった。あの時、母の唇に少しでも触れてやれば、彼女はきっと満足して死ねたのだろう。しかし、その場合僕には何が残ったのか?
 死んだ者のことをあれこれ考えても、もはや仕方あるまい。けれども僕は、あの時どうすべきだったのかを、ずっと悩み続けているのだ。
 どうすれば、僕は母を許すことが出来たのだろうか?

 今でも僕の唇には、母親の姿をした悪魔が潜んでいる。

(C) Nano Sasaki. 1999-2023